ガセネタの山崎春美さんと音楽研究家の渡辺未帆さんが大里俊晴氏と間章の墓参りにやってきた

お盆の前に、ガセネタの山崎春美さんと音楽研究家で大学講師の渡辺未帆さんが大里俊晴氏と間章の墓参りにやってきました。AA(青山真治監督)新潟上映会の時の日報の星龍雄さん、映画監督の梨本タオさん、ベガーズの亀田幸典さんが集まり、西堀寺巡り後、さい三郎(古町11)で会食しました。
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お二人には、昨年の間章読書会(高円寺・円盤)で初めてお会いしました。山崎春美さんとお会いした時、その風貌から、なぜか、存在自体が『ありがたい人』だと感じました。二度目の読書会では、後ろの席で、そっと手を合わておりました。
そんな人と、こんなに早く、会話が出来たことはとてもうれしいことでした。新潟裏観光は全部は回りきれませんでしたが、翌日、弥彦、良寛裏観光をうながし長岡駅で別れました。別れた後ろ姿に手を合わせていたことは言うまでもありません。
『ありがたい人』と言うことをうまく説明できませんが、灰色のベールに身を包めばねずみ男のように見え、錦のベールに身を包めば観重菩薩(かんじょうぼさつ)に見えるとでもいうことです。
山崎さんの著書『天國のをりものが: 山崎春美著作集1976-2013』は、私も買ってあるのですが、当分読むことはないでしょう。なぜなら生きている本人の方が絶対に面白いに決まっているからです。次の日から、間章の霊か、お二人の訪問で舞いあがったせいか、夏風邪をこじらせ一週間鼻水と咳で寝込みました。
『天國のをりものが: 山崎春美著作集1976-2013』
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# by moekire | 2015-08-22 11:37 | 萌え  

終戦記念日が近づくと、子供のころに見たドイツ映画『橋』を思い出します。

終戦記念日が近づくと、私が子供のころに見たドイツ映画『橋』を思い出します。ネットでそれらしい映画があったのですが、すごくきれいなカラー映画でした。

確か白黒フィルムだと思ったのですが、私がボケたのだろうと考えていましたが、細部のシーンが違うので、検索し直したら。リメイク版(TV)でした。

ぜひ白黒版の『橋』(1959年)を見てください。14才(中学2年)の私は封切りを見ていたことになります。

(お盆で、時間のあるひとはぜひ見てください)

ドイツ映画『橋』(1959年白黒フィルム、英語字幕)(日本語字幕はネットに無いようです)

http://www.youtube.com/watch?v=1JHG2SD-9fI

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ドイツの前線が近づきつつある田舎町の普通の若者(16才以下)に召集令状(国民擲弾兵・大戦末期の少年、老人の二線級兵士)がきます。にわか訓練で銃を持った若者たちは故郷を守る高揚感で満ちていました。

“町の橋を守れ”という命令は少年たちを戦火に巻き込みたくないと思った体調の思いやりでしたが、命令どおりに橋を守り続け、悲劇の結末になるという筋です。

ドイツ語も英語も分からない私でさえ、おおよそのあらすじを頭に入れて見れば、伝わるものがあります。(前半は少年たちの悩みや生活が描かれていて日本語字幕があった方がよいですが、戦闘シーンは言葉はいりません)

最後の15分、若者の無駄な戦闘は何度見ても哀しすぎます。 敵の戦車もパンツァーファウスト(米軍のバズーカ砲をドイツが改良)で1台破壊しますが、7人の内5人が死に2人が生き残り、連合軍は煙幕を張って一旦退却すします。

そこにドイツ軍の味方がきて、お前たちは余計なことをしたと言って、橋の爆破作業に取り掛かるが、生き残った若者二人は自分たちの犠牲で守った橋を爆破すると聞いて憤慨し、爆破作業隊に銃を向けて追い払うが、 慌てて逃げ出す爆破作業隊の機関銃で一人が撃たれ残った少年一人の姿で、フィルムは終わります。

敵味方、両軍にとって、彼らは戦争の“消耗品”ですらなく、“厄介物”であったわけです。

右であれ左であれ、東であれ西であれ、一旦始まった戦争とはこういう小さなことの積み重ねで、常に民衆が犠牲になります。大規模な暴力と恐怖で人々を支配し2百万人以上が死んだ戦争が69年前にありました。

終戦で全てが終わったのではなく、アメリカは新型爆弾(原子爆弾)の生体実験をし、都市と人体の被害データを集め冷戦に備えました。日本の上層部の者たちの中にもアメリカに協力し戦後ぬくぬくと生き残った者たちも多くいます。終戦は歴史の通過点でしかなく、国家間の軋轢は大きく動いています。

さりとて、“橋”の状況に私が置かれたなら、アメリカ兵であれ北朝鮮兵であれ、私の隣の友人の頭を打ちぬかれたならば、躊躇せずに機関砲を打ち返しているでしょう。

そのような状況に誘導されないように、狭い枠を超えた自由な発想を持ち続け、自分の心の仕組みと、世の中の仕組みを学び続けなければなりません。

ドイツ映画『橋』(1959年白黒フィルム、英語字幕)

http://www.youtube.com/watch?v=1JHG2SD-9fI

DVD日本字幕
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カラー、リメイク版(2008年、日本字幕)

http://www.youtube.com/watch?v=Cbo-Y2uxUUY

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(蛇足、始めて映画館で映画を見たのが、
シェーン』(Shane1953)で、7才・小学校2年で新潟宝塚(現坂内小路角駐車場)で母と封切りを見たのが最初です。暗い会場と人ごみに酔って、終わって外にでてから吐きそうになりました)










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# by moekire | 2014-08-15 01:22 | 侘び・寂び  

新潟地震50周年の2014年6月16日新潟市立白山小学校の避難訓練(1964年6月16日13時1分41秒新潟地震発生)

新潟市立白山小学校の避難訓練に行ってきました。50年前の1時1分41秒に警報が鳴り、生徒は机の下にしっかりと身を屈み。その後、津波が来るというので300余名の全校生徒は屋上に速やかに避難しました。
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50年前の全
校生徒数は1213人で約4倍の生徒数でした。その時は今集まっている屋上が、というよりも3階建ての校舎がパックリと割れ、1階の職員室から屋上の青空が見えたそうです。津波の引き波で信濃川の河底が見え、当時の生徒も屋上に避難したそうです。屋上の割れ目は20~30cmで、やんちゃな男子生徒はその割れ目を飛び越えたりして、先生にげんこつをもらっていたと、当時白山小学生だった蔵織・日本画塾の近藤先生が話してくれました(飛び越えていたのは近藤先生本人です)。
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(割れたプール)
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現在の校庭の右に体育館、その奥にプールがあります。当時の完成したばかりのプールは正面の森のところにあり、真っ二つに割れてしまいました。体育館の位置はそのままで、地割れた昭和大橋登り坂の左に写っています。昭和7年にできた鉄筋コンクリートの校舎は、液状化であちこち傾きましたが崩れることなく生徒を守りました。
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(公会堂(現・音楽会館)の大時計は地震発生時の1時1分で止まっています)
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蔵織のある西堀地区の人々は白山小学校に避難することになっていますが信濃川に向かって進むことになります。お年寄りも多くたどり着く前に津波がやってきそうです。川と反対方向の新潟大学病院の高台か、目の前の耐震工事の済んだ地方裁判所の屋上が一番地安全ではないかと検討中です。








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# by moekire | 2014-06-18 18:55 | 新潟市のこと  

坂口安吾が入園した『新潟市西堀幼稚園』(明治43年創設)のお雛様を見てきました。

坂口安吾が入園した『新潟市西堀幼稚園』が昭和41年に移転した『新潟市立八千代保育園』(新潟市中央区上大川前2)のお雛様を見てきました。

園長さんをたずねますと、『今日(3月4日)の午前中まで飾っていましたが、午後からかたずけてしまいました』とのこと、片づけ早すぎ!

湊にいがた 雛人形・町めぐり』ではだいたい3月半ばまで飾っておきますが、お嫁に行けなくなると父兄に文句を言われるのか、毎年4日にはかたずけてしまうそうです。 それでも、園長先生に御無理を言って、内裏雛だけ見せてもらいました。

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戦前の保育園の卒園アルバム(昭和4年、7年、17年)の写真に雛段が写っています。
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昭和4年のアルバム
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昭和7年のアルバム
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今の内裏雛は大正~昭和初期と私は思いますが、アルバムの写真のものか、まだ確認はできていません。

飾らなかった、もう1セット有るそうですが、来年見せてもらうことにしました。また、『青い目の人形』のケースが昭和4年と7年のアルバムに写っていますが、17年の写真には写っていません。戦争が近づいていたためかもしれません。

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昭和17年のアルバム
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八千代保育園では、この『青い目の人形』ケースも見たことが無いと言っています。 『青い目の人形』についてはハイカラ文庫さんに詳しく載っています。

青い目の人形と新潟雪子① http://hikarataro.exblog.jp/20774874/

 青い目の人形と新潟雪子② http://hikarataro.exblog.jp/20802862/


坂口安吾が入園した新潟市立西堀保育園(幼稚園)

http://moekire2.exblog.jp/19034232

 







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# by moekire | 2014-03-06 22:24 | 新潟市のこと  

間章の墓参り・その② 『なしくずしの死』は『なし崩し的な死』か?

1978年12月12日は間章の命日。勝楽寺へ墓参り-①
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〈なしくずしの死〉への覚書と断片 間章著作集 II
今年、2013年11月に
発刊(月曜社)された。
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また、『阿部薫写真集 OUT TO LUNCH写真・文:五海ゆうじ

も出版され、渋谷GALAXY-銀河系にて写真展阿部薫12葉の写真+2」が開催された。そこで写真家の五海ゆうじさんに始めてお会いした。『割れた鏡または化石の鳥』のアルバム写真の両手を広げた吉沢元治の写真が印象的でずっと気にしていたカメラマンであった。こわもての写真家と思っていたが、ずいぶんやさしい人で写真集にサインをしていただいた。

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レコード『阿部薫-なしくずしの死
MORT A CREDIT)
1976年・間章プロデュース)
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(伝説的なアルト・サックス奏者の阿部薫が生前に唯一発表したソロ作品(1976年)。阿部薫は1978年の99日に29歳で自殺か薬事故で死亡。同年3か月遅れて、間章が1212日脳溢血で亡くなる。死の直前、ドラマーの日野明(晃:現武術家)が北海道で共演していて、阿部の死を予見していたという。(日野明といえば、和歌山の手造り大型道場の建設に吉沢元治が手伝っている。また、武術身体の動きでダンスのフォーサイスとの交流も深い)
 
 

間章の文章は読む者の襟足に冷風を送り、悪寒と嘔吐を礼賛するような幻惑的な言い回しが多い。しかし、間章には、頭でひねり出した悦な

言葉を文章にしたということではなく、その吐き出された時の異物(胃物)は体温と同じ温かさだというリアルさがある。

『なしくずしの死』という言葉は、ルイ・フェルディナン・セリーヌLouis-Ferdinand Céline)のMORT A CREDIT

『なしくずしの死』からの関連ではあるが、『なしくずしの死』は『無し崩し的な死』か?

生きとし生きる人間にとって、生はプラスで『死』はマイナスイのメージで、『くずし』は崩す、『なし』は無いのイメージであり、『なしくずしの死』はやはりずるずると死に向かってのマイナスイメージのカーニバルなのか。
しかし、国語の辞書では、借金を済(な)し崩す=借金を少しずつ返し崩すこととある。 間章の子供のころの新潟では『これを○○さんになしてこい』(返してこい)と言っていた。 『なしてこい』は『電車がずる』(動く)とか『げっぽ』(最下位、ビリ)とかいう新潟の方言と同じものと思っていたが、『済(な)してこい』は正しい言い方であった。もう少し田舎に行くと『ながなせ』(おまえがかえせ)とも言っていた。

そうであれば、『済(な)しくずしの死』は『死を少しずつ返してゆく』という意味で、プラスのイメージになり、『死を少しずつ返す』ということは『生を少しずつ取り戻す』ということになる。

『済(な)しくずしの死』は『生を少しずつ取り戻す』となり『無しくずしの死』は『済(な)しくずしの生』となる。 ルイ・フェルディナン・セリーヌLouis-Ferdinand Céline)のMORT A CREDIT『なしくずしの死』の翻訳の意図はわからないが、間章のひらがなで書かれた『なしくずしの死』は『なしくずしの死』と『なしくずしの生』の両方の意味を含んでいる。

少しずつ『生』の足元を崩しながら死を豊かにし、『死』の淵をずり落ちながら、『生』を満喫するとでもいうような・・・・。

いずれにせよ、その岩肌を素手で削る音が音楽となり聞こえてくる。私たちはその生と死をより豊かに、またより満喫するために、芭蕉がいうように習らわなければならない。松のことは松に、サックスのことはサックスに習えと・・・。 

 

間章著作集の公開読書会が高円寺でおこなわれている。主催:須川才蔵さん

2014年1月6日(月)は第19回目で 『刊行直後の間章著作集第2巻『〈なしくずしの死〉への覚書と断片』から、セシル・テイラー論を検討します。当日プリントを配布しますので、初めての方もお気軽にどうぞ!』とある。

場所は東京都杉並区高円寺駅前 『円盤』


1978年12月12日は間章の命日。勝楽寺へ墓参り-①

 

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# by moekire | 2013-12-15 13:29 | 新潟市のこと  

1978年12月12日は間章の命日。みぞれの中、勝楽寺へ墓参りへ

間章は1946年に生まれ、亡くなった時が32才で、死んでから35年が経った。
1978年12月12日は間章の命日で、みぞれ混じりの日暮れ時、墓参り(勝楽寺・西堀8)に行ってきた。向かいのビルの窓明かりの反射か? 墓石が変に光っていた。
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帰りに、駅南ケヤキ通りのカフェドラペさんによった。マスターの安宅さんと間章の話をしながら、吉沢元治のベースソロ、『インランド・フィッシュ』を全曲聞いていた。 こういう日は、2曲目の『窓』が一番いい。
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間章のプロデュースで、1974年(新宿安田生命ホール)、吉沢元治ベースソロコンサートが開かれた。当時はベースソロでも400人以上入が集まった。
翌年『インランド・フィッシュ』LP盤のイラストを描き、私のおやじにINLAND FISHと筆文字で書かせた。
写真は『インランド・フィッシュ』復刻CDと間章のお父さんのマイカップ。
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お父さんは昔から、ラペさんに珈琲を
飲みにきていて、脳溢血で 半身麻痺になった後も、ベガーズの亀田さんのフォローで飲みに来ていたという。亡くなった後、カップだけが残され、今もラペさんに飾ってある。オールドビーンズにはちょうどいいサイズで、ロイヤルコペンハーゲンと並ぶと高価に見えたが、底を透かすと芸者さんが笑っている。外人向けのお土産カップで、章のお父さんの茶目っけぶりがうかがえる。
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間章のお父さんは高度成長期の『一人不動産屋』で、どういうわけか、幼い章をよく連れて飲み歩き、父が帰るまで、店の外か、店内の隅で待たされていたと、間章は話してくれた。喫茶マンハイムのオーナーだった母上はどうしていたのだろう。店がいそがしく、夜の子供たちは父親任せだったのだろうか。
妹が20代で、間章が32才で亡くなった。その後両親も墓に入いり、後から誰も入ることのない墓が寒さに発光していた。


間章(あいだあきら)
http://ja.wikipedia.org/wiki/間章

吉沢元治 - Inland Fish (1974)
http://www.youtube.com/watch?v=Cxf7qKpn6vg
2番目の『窓』は先回、蔵織での『やまいを舞う』で渋谷陽菜さんに踊っていただいた。


1978年12月12日は間章の命日―その②へ 
『なしくずしの死』は『なし崩し的な死』か?




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# by moekire | 2013-12-15 12:21 | 新潟市のこと