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鳥居医院の先生から『新潟の電話70年のあゆみ』をお借りしました

新潟市白山神社前の鳥居医院の先生から『新潟の電話70年のあゆみ』をお借りしました。題字は江川蒼竹
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新潟電話交換局第1回電話加入者名(明治34年3月168加入のうち判明の分)というページに色々載っていた。電話番号15番が鳥居貞鍗次郎
とあります。31番に本家の志賀五作(呉服・はり五)(現・東堀5あぽろんの位置)がありました。庄内屋しんさんと関係があった八木朋直は電話がきらいのようでした。(赤線は画像処理)
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本町6の志賀呉服店(播佐・はりさ)はそばの竹野。坂口仁一郎、鍋茶屋。
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竹山医院、斉藤喜十郎。東堀8・鳥国(料亭)は先回昔の西堀について聞きに来た新潟日報の山田記者の実家です。(戦時中防火のため強制解体させられたそうです。:現・鍋茶屋通の丸伊あたり)
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行形亭、香月堂。最後に、上大川前4、田代三吉(海産物卸)は時計展やお雛様めぐりでお世話になった田代さんのおたくです。


文明開化のハイカラもの=「電話」が新潟へやってきた

by moekire | 2011-08-30 18:24 | 新潟の昔のこと  

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