昭和7年の『新潟市立西堀幼稚園』の卒園アルバムに『青い目の人形』が写っていた。

昭和7年3月、卒園アルバム(思出で)をSさんが発掘しました。
 表紙には、新潟市立鏡淵・西堀幼稚園とあります。(鏡淵と西堀という文字が並列にあらわされていますので、鏡淵幼稚園と西堀幼稚園が一緒にあったのかも知れません。)
 正面の門には右側に『市立西堀幼稚園』、左側に『新潟夜間女学校』とあります。昭和37年の住宅地図には西堀社会館洋装部とある何か関連があるのか?
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 昭和7年→昭和17年→終戦→昭和27年と、くしくも、10年ごとの写真が見つかったことになります。こうやって並べて見てみますと、昭和7年の子供たちのほうが、身なりもしっかりと豊かな雰囲気です。終戦後、7年目の子供たちが一番貧しそうですが何かリラックスしています。(卒園アルバムはなく、卒園集合写真1枚のみです)
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昭和7年
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昭和17年
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戦後、昭和27年

 昭和7年のお雛様の右脇に『青い目の人形』が写っていますが、昭和17年の雛祭りの写真には姿を消しています。
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昭和7年、青い目の人形が大切に箱の中で飾られている。
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昭和17年の雛祭りには、青い目の人形は無い
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 Wikipediaの『青い目の人形』には 
 (日露戦争後に日本が満州の権益をにぎると、中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだで政治的緊張が高まっていた。また、1924年に成立したジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)もまた、両国民の対立を高めつつあった。そんななか、1927年(昭和2年)3月、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が提唱して親善活動がおこなわれた。その一環として、米国から日本郵船の天洋丸で日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が贈られた。仲介者は渋沢栄一であった。「青い目の人形」は全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎された。返礼として、渋沢栄一を中心に「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が同年11月に日本からアメリカ合衆国に贈られた。           日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は反米・反英政策により敵性人形としてその多くが焼却処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を隠し、戦後に学校等で発見された。現存する人形は2010年現在、323体[1]にすぎないが、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されている。)Wikipedia
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by moekire | 2013-07-20 22:15 | 新潟の昔のこと  

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