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蔵織のお雛様の秘密・・・

実は、蔵織に飾ってある『享保雛』の頭が禿げています。茶髪ではありません、その秘密は
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手前の小さな『享保雛』の雄雛の冠は人形の頭部と一体でできています。
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横から見るとよくわかります。一体でできていた冠の部分がポッキリと折れて無くなっているのです。
頭部と冠が一体でできているお雛様は江戸中期のものだそうです。
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『古今雛』になると冠と頭部は一体ではありません。まぶたもふくらみが出てきます。
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明治時代の『古今雛』では瞳の裏からガラス玉がはめられています。
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by moekire | 2012-03-11 13:58  

六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家の明治・大正の乾板写真と阿部家ルーツ・・・

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新潟県南魚沼市六日町の旧家・高橋家『金城酒販・高橋一哉氏』の十代目にあたる高橋捨松翁が写した乾板写真が発見され、明治、大正の六日町の街並みや生活行事、新潟市の写真など1244枚を、十二代の高橋一哉さんがデジタル化されているということで、見学に行ってきました。新潟市の貴重な写真も数点ありました。
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十二代の高橋一哉さん。左PCのデジタル画像でたくさんの貴重な写真を見せていただきました。
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信濃川の最大の支流、魚野川が高橋家の裏を流れています。大正13年に上越北線が塩沢~浦佐間を開通するまでは、魚野川の川舟が三国街道と並び重要な交通手段でした。明治期以降は長岡市までの定期船があり、朝8時に六日町を出発し夕方5時ころにに長岡についたといわれています。『胴高舟』(図上)は50俵の米を、『こうりんぼう』(図下)は30~70人の客と物資を乗せたといわれます。帰りは流れに逆らって、岸から数人の人達で引っ張りながら4~6日間かけて六日町に戻りました。(復元された川舟もずいぶん大きいですが、昔の写真ははるかに大きいです。そんな大きさを復元するには、大きな材木がなく現在の大きさになったということです。)
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7人が船を曳いて魚野川をさかのぼる。和南津の下流あたり。貴重な写真である。(写真提供川口町)信濃川五十三次・六日町船着場跡




新潟県六日町(魚沼市)の旧家・高橋家の明治・大正のガラス乾板写真を訪ねて・・・
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by moekire | 2011-12-08 00:29  

小国の真福寺の木喰・仁王像(阿形・吽形)と長谷川邸も見学・・・・

先回の木喰ツアーで省いた真福寺の木喰仁王像を見てきました。道中の長谷川邸も見学しました。
真福寺の山門はすでに冬支度がされていました。
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真福寺・仁王像(阿形)
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仁王像(吽形)
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文化元年(1804)、長岡市小国の真福寺を訪れた木喰上人は、仁王尊の巨像を一木造りで彫り上げた。1本のケヤキの木から作られた、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)はそれぞれ2m40cm余りもの高さがあり、木喰仏の中でも最も量感あふれるものだ。固いケヤキを使っているにも関わらず、87歳の木喰上人は10日間あまりでこの2体を完成させたという。百貫以上もの木を相手になぜ一人でできたのか、未だ謎だが木材を池に浮かべてくるくると回しながら彫ったという伝説もある。その表情は一般的な仁王とは印象が違い、どことなく愛嬌があり、ユーモラスだ。(新潟県公式観光ガイド
山門天井
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ライオンの狛犬が階段の脇におりました。
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404号線途中の長谷川邸も見学
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武士の出身といわれる長谷川家が、塚野山に居を構えたのは江戸時代の初め頃です。以来山村地主としての地位を固め、代々庄屋を勤めてきました。幕末から明治にかけては近郊4か村の耕地や山林の7割を独占し、180町歩余の田から4000俵もの小作料をあげた豪農です。
 敷地は街道に面した間口約70メートル、奥行120メートルと広大な物で、周囲に濠をめぐらせているのが特徴です。主屋は宝永3年(1706)の大火で類焼し、享保元年(1716)に再建されたと伝えられています。邸内には県内最古の豪農の館であることを示す建築様式が随所にみられます。(長岡市・観光)
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つづく「アオーレ長岡」のナカドマがハレの空間なら、『長谷川邸』の享保の『中土間』は谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」の時空だ。
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by moekire | 2011-11-26 01:09  

信用していなかった早津さんの前に静御前の霊が・・・

鳥の歌・蔵織共同ツアー『木喰・静御前・雲蝶めぐり』へ行ってきました。
雨の中10人の方が集まり、最後は木喰観音像を手に持つことができて感動の一日でした。
長岡市(栃尾)栃堀にある静御前の墓の前で静御前の霊?が写っていました?!
静御前の墓など全然信用してなかった早津さん(黄色い破れ傘)の前に現れるとは・・・・!
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もう一枚といって3秒後とった写真。早津さんの体が静御前の墓石と重なった瞬間に顕れた。
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早津さんの左手下の柵の石柱前に光っている。( ↓ クリックで拡大)
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左の江戸時代に建てられた墓下の前の白いものはペットボトルのキャップ。右の光は白い花か雨のしずくがフラッシュ反射したのかとも思ったが、花でもなく、石柱の反射角度が広角であり、雨粒の反射ならもっとたくさん空中にでるはずである。(デジカメ特有のほこり粒子のフラッシュ反射でもない)
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至近距離の塵はピンボケで、遠くの写体よりも強いフラッシュ光を反射するので、丸い白っぽい物体となって写り込みます。蔵織工事中の時の写真。それにしても不思議と神獣鏡のような文様になっています。(クリックで拡大、8個の塵の反射)


2006年の静御前の墓石の写真
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今回の雨の中の石よりも黒く写っていたものは静御前の墓と書かれた木製の杭。
左の墓は江戸時代、セイという娘が墓の傷みを悲しんで、自らはた織りで稼いだお金で立て直そうとしが、18歳で病死した。父が娘の意思をついで建てたものだそうです。
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道向かいに光徳寺があり、静御前の墓を守ってきたが2度の火災にあい、文献は残っていない。お寺裏は広大な台地となっておりはるかに守門岳が見える。冬は数メートルの積雪の中で台地開墾して切り開き生活を立てていたというはなしである。
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また、静御前の墓の谷向かいの部落には那須与の末裔部落(全員那須姓)と城跡と池がある。

さて、光の原因だが、静御前の墓の霊の影響ではなく、どうも早津さん自信の方に原因があるらしい。
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宝生寺の木喰堂前で撮った写真にも早津さんの大事なところに顕れている。
やはり、雨の滴のフラッシュ光反射現象で偶然の出来事である。
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偶然の出来事ではあるが早津さんの所に重なって起きていることは必然である。前立腺に注意だ。



『木喰・静御前・雲蝶めぐり』その② 静御前の墓,貴渡(たかのり)神社・雲蝶作



鳥の歌・蔵織共同ツアー『木喰・静御前・雲蝶めぐり』は感動的だった。 その①へもどる


小国の真福寺の木喰・仁王像(阿形・吽形)と長谷川邸も見学・・・・
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by moekire | 2011-11-07 12:51  

日本歯科大学新潟生命歯学部・医の博物館はすばらしい・・・

日本歯科大学新潟生命歯学部・医の博物館へSSさんと行ってきました。想像以上に面白く、貴重な展示ですばらしいものでした。
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いきなり『飲食養生鑑(かがみ)と房事養生鑑 江戸後期 歌川国貞画』が飾ってあり、別世界へ
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飲食養生鑑・房事養生鑑について(くすりの博物館より)
庶民の娯楽の錦絵は様々な題材のものがありましたが、人の体内図を描いたものは珍しく、人々に大変評判でよく売れました。飲食養生鑑は「悪い病気は飲食の不養生でおこる」ことを述べ、飲みすぎ食べすぎを戒めています。房事養生鑑では体内を遊郭の世界にたとえて、女性特有の体内を描いています。当時の人々にとってインパクトがあったことでしょう。
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2009年正月に蔵織で展示したものの『月岡芳年 風俗三十二相』の「めがさめさう」
があった。江戸のギャルが歯磨きをしている。
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抜歯器具 歯鍵(しけん)
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日本歯科大学新潟生命歯学部・医の博物館

日本歯科大学
日本歯科大学は、中原市五郎によって、明治40年(1907)6月、公立私立歯科医学校指定規則に基づくわが国最初の歯科医学校として東京都千代田区に創立されました。ここ東京都千代田区(元、東京都麹町区)は、わが国歯科界の発祥の地となりました。当時、歯科医療は黎明期にあり、「学・技両全にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的としました。そして歯・顎・口腔の医学を教導し、学・術・道を兼ね備えた歯科医師を輩出し、歯科医学の進展、歯科医療の向上、患者国民の福祉に尽力しました。
私学として創立者の「自主独立」という建学の精神を継承し、平成23年(2011)に創立105周年を迎えました。この105年におよぶ歴史と伝統は、本学がわが国の“歯科界の源流”といわれる由縁であります。
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by moekire | 2011-09-09 16:01  

バイスクルジジイと大河津分水と池田謙斎と良寛・中村家、原田家、五合庵、乙子神社①

バイスクルジジイ SさんとTさんが大河津分水・新可動堰を見学していたので、途中から合流。
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        ↑ 寺泊方面 新可動堰   ↓ 新潟方面 可動堰
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バイスクルジジイ SさんとTさん
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旧大河津分水可動堰は公園として残されている。その先の赤い橋を渡って中之島方面へ車で5分ほど行くと『入澤一族と池田謙斎 生家跡』(長岡市中之島西野300番地1) がある。
(日本の医学界に大きな功績を残した中之島西野の入澤一族の生家跡を、入澤家の人々の生涯を顕彰する記念庭園。池田謙斎(1841~1918)は、西洋医学を修め明治新政府に登用され、陸軍医監を経て東京帝大医学部総理となられました。明治19年に明治天皇の侍医となり、同21年、日本で最初の医学博士号を授与されました。おいの入澤達吉(1865~1939)は、東京帝大の医学部長、日本内科学会会頭などを歴任し、大正天皇の侍医頭となって天皇崩御まで献身的に尽力されました。 長岡市観光
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池 田 謙 斎
『・・・ 文久三年六月十日、緒方洪庵は突然喀血し卒然とこの世を去った。享年五十三歳。失意の入澤圭助(池田謙斎)は一旦江戸を去り故郷西野(長岡市中之島西野)に帰る。兄入澤恭平も長崎から越後に帰り、蒲原郡今町で開業中であり、圭助はその手伝いをしばらくさせられていたが、兄恭平に無断で再び江戸へ旅立った。医学所の新頭取には、恭平が長崎で師事していた松本良順が就任していた。良順は洪庵とは人柄が違い学生達には不人気であった。池田多仲あらため玄仲が中に入り和解に努めたが、学生達は良順の授業をボイコットした。
学生達は語学力の不足を長崎から帰ってきたばかりの緒方洪庵の子、惟準の新設した塾で補った。この時、緒方惟準は二十歳だった。
圭助(池田謙斎)は兵書の研究が目的で蘭学を始めたが、ヨーロッパの学問を勉強すればするほど攘夷など思いもよらぬことを悟った。ここに至り、入沢圭助は西洋医学の力で、病からこの国の人々を救える人間になろうと決心した。ときに元冶元年(1864)三月。圭助(池田謙斎)が江戸に出てから六年を経過していた。・・・・   ・・・・・
ある日、圭助(池田謙斎)は緒方洪庵の未亡人に呼び出されて、池田玄仲の養子になることを勧められた。熟慮の末にこれを受けた圭助(池田謙斎)は、一旦、緒方家に養子となる形式をとった上で、池田玄仲の養子となり名を池田謙斎と改めた。・・・・・』(「東京帝大医学部総理 池田謙斎伝」長谷川つとむ著 新人物往来社)
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残念ながら、蔵の記念館資料を見る時間がなかった。(近くの家の人が鍵を持っている)
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つづく


長岡市観光 入澤一族と池田謙斎 生家跡


バイスクルジジイと大河津分水と良寛・中村家、原田家、五合庵、乙子神社②


弥栄の杜から「東京帝大医学部総理 池田謙斎伝」長谷川つとむ著

【長谷川泰先生と新組地区】


大河津・新可動堰


良寛・貞心尼・由之 関連年譜(梅津昇さんの年譜が一番わかりやすい)


梅津昇編著『良寛・貞心尼の仮名を読む』
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by moekire | 2011-09-05 05:04  

古町芸妓物語『新潟の花街』藤村誠著、朱鷺新書が出版されました


郷土史研究家・花街研究家 藤村誠先生がわざわざやってきて、出版された本を持ってきてくださいました。
古町芸妓物語『新潟の花街』藤村誠著、朱鷺新書(新潟日報事業社・1200円+税)
◆『柳都の華』ー新潟花街史を見るーが始まりました。
◆『柳都の華』あと1週間で終わりです。
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郷土史研究家・花街研究家 藤村誠先生の「新潟美妓列伝」によると
「 ところで、初代萬代橋架橋の明治十九年当時、伯爵柳原前光は、賞勲局総裁として、また妹愛子が嘉仁親王(後の大正天皇)の生母であることで、世人によく知られていた。古町花街に何度か遊んだ彼は、見るからに可憐な数え十四歳の美女しんのたおやかさに、たちまち魅了される。
 一方、萬代橋を架けた八木朋直も、まだ雛妓の時からしんの大ファンであった。朋直が「萬代橋」という橋名の揮豪を前光に依頼する当り、二人の間を取り持ったしんの斡旋が大いに功を奏したという。この初代萬代橋の親柱に掛けられた鉄板の橋名板は、現在新潟市旭町にある日本海タワーのロビーに展示されている。」と書かれています。
そんな話も本の中にあります。
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             蔵織に晩年(15年ほど)を過ごした庄内屋しんさん    

藤村先生は暑さなどなんのその、電動アシスト自転車でアットいうまに遠くへ行ってしまいました。
お元気でなによりです。
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初代萬代橋の親柱の橋名「萬代橋」を庄内屋シンさんを通して柳原前光に書いてもらいました。

古町芸妓物語『新潟の花街』藤村誠著、朱鷺新書(新潟日報事業社・1200円+税)
◆『柳都の華』ー新潟花街史を見るーが始まりました。
◆『柳都の華』あと1週間で終わりです。
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by moekire | 2011-07-25 14:17  

新潟電鉄物語の軽金前停留場と塩の橋・・・・・・

新潟電鉄物語
1933年(昭和8年)4月1日 東関屋 - 白根間 (17.4km) 開業。
7月28日 県庁前(後の白山前)- 東関屋間延伸開業。県庁前駅開業
1936年(昭和11年)3月26日 県庁前駅舎が完成。
4月1日 監督署小路、白山駅前、商業通り、硫酸会社前の各停留場開業。
1942年(昭和17年)頃 軽金前停留場開業。
1943年(昭和18年)12月31日 新潟合同自動車と合併、新潟交通が発足する。
1944年(昭和19年)9月1日
監督署小路、白山駅前、商業通り、中学校前、軽金前、硫酸会社前の各停留場廃止。
1948年(昭和23年)5月25日
電車線・県庁前 - 新潟駅前間(万代橋経由)の軌道線工事に施工許可が下りる。
1958年(昭和33年)10月23日
県庁前 - 新潟駅前間の軌道特許が失効、起業廃止許可を受ける。
1964年(昭和39年)6月16日 新潟地震。鉄道線が約1か月、軌道線が翌年1月まで運休。
1985年(昭和60年)6月1日 新潟県庁の移転に伴い県庁前駅を白山前駅に改称。
1992年(平成4年)4月1日 白山前 - 鉄軌分界点 - 東関屋間廃止。(2.6km)
1999年(平成11年)4月5日 東関屋 - 月潟間 (21.6km) 廃止により全線廃止。。(Wikipedia

にいがた文明開化ハイカラ館
に『新潟電鉄物語』が載っています。
新潟電鉄の終着駅は蔵織から徒歩2分のところにありました。
上空から見ると正三角形の建物で、角が丸くなっていて、おむすびのような形の2階建ての建物でした。外観は総タイル貼りで鉄筋コンクリート造りに見えますが、木造タイル貼りでした。
現在の市役所前の噴水のあるところです。
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旧新潟県庁(現新潟市役所)の道路を挟んで右脇のおむすび形の建物が新潟電鉄白山駅。その右の広い建物が新潟地方裁判所。その下の白い建物が旧トキワホテルで、その右横が蔵織です。(下、昭和50年の航空写真)
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昭和30年代初期の「新潟市家屋明細図より。左端の三角形の電鉄ビル。県庁分館はまだ科学技術博物館が明記されている。(子供時代にエンジンのピストン・カムの断面模型を手廻しで動かしたり、放電装置のボタンを押して稲妻を発生させて遊んでいた、記憶がある。)
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『宮澤先生のBlog日記 Part2!』新潟市地図
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新潟電鉄・東関屋駅の信濃川向かいに日本軽金属の工場屋根と鉄道引き込み線が見えます。
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新潟電鉄・東関屋駅下の中州のあたりに『塩の橋』があったようです。日本軽金属に塩を運ぶ、日本軽金属専用の橋だということです。
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左上の白いところが関屋自動車学校で、右国鉄(JR)越後線、その左の丸いタンクは新潟硫酸や歴世鉱油などの工場(現やまだ電気、原信)。その専用国鉄引込み線。右下、けなげに走る電鉄車両が写っている。
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塩の橋の写真対岸に日本軽金属の工場屋根が見える。昔の子供たちは屈託がなくていいですね。下駄も履いている。
『宮澤先生のBlog日記 Part2!』
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立派な橋です。
h_iwasaki518さんのフォトアルバム
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『フォトログもうぞう』さん

デンテツには夢がある軽金前停留場
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by moekire | 2011-07-21 09:23  

②50年前の西堀埋立工事と鍛冶工事の下水道管埋設工事

 ①からのつづき)

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伊佐さんから西堀埋立工事と鍛冶工事の下水道管埋設工事(昭和36年5月~8月)の貴重な写真をお借りしました。
オレンジの線で囲われた部分が写真に写っています。青色の楕円の中に伊佐クリーニングと書かれています。自宅のベランダや屋上から撮っています。1923年(大正12年)生まれの伊佐おばあさまですから1961年(昭和36年)は38才のモダンなお母さんでした。自分の写真機で撮り続けていたそうです。
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50年前のケーブル式シャベルカーはいいですね。地表のアスファルトをはがし、崩れない程度まで掘ります。

ケーブル式シャベルカーあるいはロープ式シャベルカーはアナログぽっくてかっこいい。
写真は油圧式シャベルカー(通称ユンボ)ではない。50年前は1961年なので、油圧式シャベルカーの国産1号機Y35は1961年でまだ新潟市では活躍していなかったのであろう。
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女性が沢山働いています。男は運転手とベルトコンベアーに3人へばりついているだけで、後は女性です。
1mほど掘ったら崩れてきますので、矢板を打ちます。左奥の丸太やぐらに重い分銅を吊るしウインチで2~3m巻き上げ、放すと分銅が矢板の頭に落ちます。ベルトコンベアーの動力はエンジンが先端についています。(おもちゃ屋の日野屋・現駐車場)昔はウインチの代わりに放射状に広がったロープの先端をヨイトマケの女性10人ほどで引っ張り、2~3m上へあげ、いっせいに手を離し分銅を落としていました。(美輪明宏のヨイトマケの歌
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分銅が右端に転がっています。左端の男性と比べるとずいぶん重く大きいです。分銅がぶれたりしないように中心に穴をあけ、鉄の棒を貫通させ、矢板の頭部に確実に落ちるようになっています。やぐらに分銅がセットされています。
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深く掘り進みます。けっこう危なそうに見えます。
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(つづく)

①伊佐さんから西堀埋立工事と鍛冶工事の下水道管埋設工事の貴重な写真をお借りしました。


美輪明宏のヨイトマケの歌
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by moekire | 2011-07-01 00:19  

『新潟古時計物語展』もあと2日です。


これがうわさの、小千谷の旧家にあった『国内現存最古の柱時計』です。(右:蔵1階展示)
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にいがた文明開化ハイカラ館さんにとても面白い話が載っています。新潟古時計物語展⑧ータヌキとボンボン時計(国内現存最古のボンボン時計)
米国セス・トーマス社製Office No.2ボンボン時計、幕末頃
時計の機械の刻印にはS THOMAS PLYMOUTH CONN USA の刻印が有り。コネチカット州プリムスハロー(Plymouth Hollow)はセストーマスの功績をたたえて街の名前を1865年にトーマストン(Thomaston)と変えています。箱(ケース)の内部のラベルにはTHOMASTONに移行した後のTHOMASTONの名前入りラベルが貼ってあり(SETH THOMAS THOMASTON, CONN)この時計は街の名前が変わった1865年頃のものと思われます。
どういう経緯で越後に入ったのかは不明ですが、どうやらこれは幕末期、越後に入って、使われてきた国内最古級の伝承ぼんぼん時計なのです。
Seth Thomas OFFICE No.2 (旧型)TIMEKEEPER 古時計どっとコム



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こちらも米国セス・トーマス社製でOffice No.3 ボンボン時計、明治初期です。 蔵2階に展示してある(中央)時計は新潟市の旧家に伝わる輸入柱時計です。無理をいってお借りしました。
Seth Thomas OFFICE No.3TIMEKEEPER 古時計どっとコム


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上は英工舎の角時計。新潟県長岡市出身の鶴巻栄松氏が東京上野に上京し、大正5年に株式会社鶴巻時計店を設立。(下クリックで拡大)
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鶴巻時計店英工舎の概要TIMEKEEPER 古時計どっとコム

新潟県長岡市出身の鶴巻栄松氏が東京上野に上京し、大正5年に株式会社鶴巻時計店を設立。資本金は200万円。
設立当時の鶴巻時計店は卸を業としていたが、大正8年に時計側の製造を開始し、同13年4月に王子滝野川(北区滝野川)に株式会社鶴巻時計店英工舎を設立、T・S・U印の掛時計の製造を開始した。「英工舎」の正式名称は株式会社鶴巻時計店英工舎で、鶴巻時計店の時計製造部門が英工舎ということである。




TIMEKEEPER 古時計どっとコム

にいがた文明開化ハイカラ館
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by moekire | 2011-06-18 11:12