カテゴリ:萌え( 8 )

 

ガセネタの山崎春美さんと音楽研究家の渡辺未帆さんが大里俊晴氏と間章の墓参りにやってきた

お盆の前に、ガセネタの山崎春美さんと音楽研究家で大学講師の渡辺未帆さんが大里俊晴氏と間章の墓参りにやってきました。AA(青山真治監督)新潟上映会の時の日報の星龍雄さん、映画監督の梨本タオさん、ベガーズの亀田幸典さんが集まり、西堀寺巡り後、さい三郎(古町11)で会食しました。
d0178825_1125397.jpg
d0178825_11273099.jpg

お二人には、昨年の間章読書会(高円寺・円盤)で初めてお会いしました。山崎春美さんとお会いした時、その風貌から、なぜか、存在自体が『ありがたい人』だと感じました。二度目の読書会では、後ろの席で、そっと手を合わておりました。
そんな人と、こんなに早く、会話が出来たことはとてもうれしいことでした。新潟裏観光は全部は回りきれませんでしたが、翌日、弥彦、良寛裏観光をうながし長岡駅で別れました。別れた後ろ姿に手を合わせていたことは言うまでもありません。
『ありがたい人』と言うことをうまく説明できませんが、灰色のベールに身を包めばねずみ男のように見え、錦のベールに身を包めば観重菩薩(かんじょうぼさつ)に見えるとでもいうことです。
山崎さんの著書『天國のをりものが: 山崎春美著作集1976-2013』は、私も買ってあるのですが、当分読むことはないでしょう。なぜなら生きている本人の方が絶対に面白いに決まっているからです。次の日から、間章の霊か、お二人の訪問で舞いあがったせいか、夏風邪をこじらせ一週間鼻水と咳で寝込みました。
『天國のをりものが: 山崎春美著作集1976-2013』
d0178825_11292578.jpg
d0178825_11295266.jpg
d0178825_11302080.jpg

[PR]

by moekire | 2015-08-22 11:37 | 萌え  

逸見・ヴィアート・クロエさんが蔵織にやってきてくれました

逸見・ヴィアート・クロエさんが蔵織にやってきてくれました。少しフランス語の翻訳をしてもらっています。
ギンギンのパリっ子で、ファッションも決まっています。
逸見・ヴィアート・クロエさんは、
今、NHKのEテレ(教育テレビ)で、『テレビでフランス語』に出演しています。
(水曜日 午後10:25~10:50 再放送:(翌週)水曜日 午後0:00~0:25)
d0178825_23152349.jpg

d0178825_23245895.jpg
そこでの、Chloé Viatte(クロエ・ヴィアート)さんの紹介文に、(パリ出身。幼いころよりクラシック・バレエを習い、仲間と劇団を結成してヨーロッパで活動。ソルボンヌ大学でフランス語教授法、パリ・ドフィーヌ大学で数学、INALCOで日本の民俗学を学び、1996年、新潟大学へ留学。現在、新潟大学などで非常勤講師を務める。人形浄瑠璃「猿八座」の一員としても活動中。)とあります。
人形浄瑠璃「猿八座」の重要メンバーで、「逸見八里」(へんみ・やさと)という芸名です。
人形浄瑠璃「猿八座」といえば、
昭和37年に早稲田大学の鳥越文蔵先生が大英博物館で発見した「弘知法印御伝記」正本から人形浄瑠璃『越後國・柏崎 弘知法印御伝記』が300年の時を隔てて、再演されました。越後の双竜、猿八座主宰西橋八郎兵衛と越後角太夫が暴れたガチンコステージは最高でした。

今年は、2013年10月20日(日)午後二時から、村上市『塩谷』の円福寺で『山椒大夫』を上演します。
クロエさんが熱演する、「猿八座」人形浄瑠璃『山椒大夫』を見に行きましょう
d0178825_23275335.png
http://shioyabase.web.fc2.com/ibennto.html
塩谷とは
新潟県村上市の荒川河口の『塩谷』地区は、その昔北前船で栄え、交易により醸造所、大工、船問屋、塩作りなどの商業が盛んになり港町というだけでなく宿場町としても栄えたそうです。
明日、10月13日(日)『塩谷の町屋散策』があり、たくさんある町屋の中を見学したり、いろいろなイベントがあります。
d0178825_23294026.jpg
d0178825_2330029.jpg
その中で、『マルマス蔵』があります。知り合いの野澤さん(野澤姓が多い塩谷地区)の先代がやっていた醸造所の蔵造り工場です。今は廃業した後を地区の人達が手作りで造ったステージがあり100人ほどが入れるイベント会場(消防許可済)になっています。
http://shioyabase.web.fc2.com/kura.html
『マルマス蔵』説明に
「明治元年に母屋の土蔵が登記されたことからして、少なくとも江戸時代からは既に、創業していたことが偲ばれる。江戸時代は、酒の醸造業も盛んで、塩谷では桶職人が盛んだったとのことで、マルマスの蔵でも、醤油、味噌を醸造する傍らで、桶の製造部があったとされています。だから、今でも、多くの桶が館内に保存されていたと考えられます。
北前船が塩谷港にに寄港していた頃は、特に「北海道全土の炭鉱」に北前船に乗ってマルマスの醤油が渡って繁盛した歴史があります。  当時は、蔵の裏側の小川より川船に物資を積み塩谷港で荷の積み替えを行っていました。蔵の中に展示してある提灯は、大正時代のものであり、また、蔵ステージ棟は、古い酒蔵を移築したものである。また、藤塚浜にある、ふじの井酒造は、マルマスと関連があったとされています。
平成2年の最後の炭鉱「夕張炭鉱」が閉山を向かえてからは、醤油.味噌を地元売りと行商に切替、商売を余儀なくされました。そして、とうとう平成14年、後継者もいなくなったことも重なり、マルマスの蔵を閉めることになりました。」
[PR]

by moekire | 2013-10-13 00:15 | 萌え  

8月10日に三代目藤蔭静樹さんが蔵織を訪ねてきてくれました。

会津八一祭』(りゅーとぴあ能楽堂8月9日)に招聘され、第二部の「舞踊と音楽」で、三代目藤蔭静樹さんが踊りました。翌日、初代藤蔭静枝と関係の深い蔵織をたずねてきてくれました。
d0178825_13385165.jpg

明治13年生まれの初代・藤蔭静樹さんは
日本人で初めて日本舞踊をパリで公演した人で、子供のころから新潟の妓楼・庄内屋(約300坪)に出入りし、蔵織に晩年住んだ庄内屋シン(佐藤シン)さん の妹芸妓(庄内屋八重・内田八重)となりました。当時、芸妓となるにはおかみ(佐藤さと)の養子となることが当たり前で、年上のシンは義理の姉芸妓となります。
初代・藤蔭静樹さんは、5歳から三味線と踊りを仕込まれ、9歳で新潟随一の市川登根に師事。12歳で庄内屋の人気芸妓になり、19歳で上京します。
明治27年に柳原前光が亡くなり、新潟に帰っていたシンは明治29年、庄内屋のおかみ・佐藤さとが亡くなっていた時には庄内屋を継いで代表となっています。その時、庄内屋八重(初代・藤蔭静樹)は16才。
19才(明治32年)で東京へ出てから、庄内屋シンさんがしおくりをしていました。d0178825_1342502.jpgd0178825_13431690.jpg
のちに永井荷風と結婚するが、荷風の浮気で、半年で静枝のほうから三行半の『文』を残してわかれます。新潟時代から和歌を詠んでいるほどの文学芸妓で、東京の新橋あたりをうろついている文化人たちに臆することなく対等に付き合っていました。踊りは新潟の当時の2大家本元(市川流、市山流)の市川流の市川登根によって厳しく鍛え上げられました。のちに、幼少のころより稽古で市山登根に何度もたたかれていたが、その厳しさに感謝していると語っています。終戦前後、新潟・柏崎に避難。戦後1964年(昭和39年)文化功労者となります。


蔵織によくいらっしゃる郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について詳しく書いています 
荷風と静枝の間に赤ちゃんができていて、その子供が、三代目藤蔭静樹さんのお父さんであるといっています。
d0178825_13474253.jpg
d0178825_135140100.jpg

私も、今日始めて三代目藤蔭静樹さんとお会いして、
背の高いこと、あごのラインなどが荷風の写真とそっくりなので、まちがいないと直感しました。
五人のお孫さんと一緒でにぎやかでした。d0178825_13491422.jpgd0178825_13494958.jpg
d0178825_14206.jpg
d0178825_1423562.jpg


NHK『八重の桜』で有名な同志社女子大学卒業しています。(本名・佐土 市子さん)



初代・藤蔭静樹年表
明治13年 新潟市古町の寿司屋の次女として生まれる。本名は内田ヤイ。
       近所の6,70人もの芸妓を抱えた庄内屋の養女になって、女主人・佐藤さとに可愛がられる。
       5歳から三味線と踊りを仕込まれ、9歳で新潟随一の市川登根に師事。
       12歳で庄内屋の人気舞妓になる。
       19歳(明治32年)で上京。
明治32年 20歳で女役者・市川九女八に弟子入り。市川が懇意にしていた依田学海、佐々木信綱も師にする。
明治35年 欧州から帰国した川上音二郎一座の明治座「オセロ」に貞奴の鞘音夫人の侍女役で出演。
       藤間流の家元勘右衛門(松本幸四郎)に入門。
明治43年 6年の修行を経て藤間流の名取りとなり、藤間静枝になる。帰郷しないことに怒った義母(佐藤さとは亡くなっているので庄内屋シンか?)から仕送りを止められ、新橋の芸者屋沢海屋から元巴家八重次として芸者に出る。
明治43年 永井荷風と会う。荷風32歳、八重次31歳。
大正3年3月 永井荷風と結婚。大正4年2月、荷風を捨てて家出。
大正6年 東京美術学校・教授の和田英作の後援で「藤蔭会」第一回公演を実施。
       回を重ねるに従って新進の芸術家を次々にスタッフに迎えて、従来の日舞から脱却。
大正10年 藤蔭会は新舞踊団体として宣言。童謡舞踊、新民謡運動をスタート。
大正12年 麹町に藤蔭会本部を設ける。弟子に内田きん子、ゆう子など。水谷八重子、岡田嘉子らも藤蔭会に出演。
       中山晋平や佐藤千夜子、岡田嘉子らと童謡運動で全国を巡業。「てるてる坊主」や「波浮の湊」を踊る。
       この頃、「三田文学」編集担当の慶大生・勝本清一郎を口説く落とす。藤蔭43歳、勝本25歳。
昭和2年 勝本は「三田文学」に静枝との情交を11月から「昌作・康子」「肉体の距離」と題した小説などに発表。
昭和3年 築地小劇場の舞台を制作した欧州帰りの美術家・村山和義にあって女の手管で口説き落とす。藤蔭48歳、村山27歳。
      同年、藤蔭は渡欧。
昭和6年 革新的舞踊を次々発表の藤蔭に藤間流に抗議されて藤間姓を返上し藤蔭流家元を名乗る。
      左翼系芸術家の取り締まりが厳しくなり、次第に日本は戦火にまみれ出す。藤蔭も革新舞踊から転向。
昭和28年 第1回舞踊芸術賞受賞。
昭和34年4月 永井荷風死去。
昭和35年 紫綬褒章・受章。
昭和39年 舞踊家として初めての文化功労者に指定。
昭和40年 勲四等宝冠章を受章。
昭和41年 86歳で死去。


初代萬代橋の親柱の橋名「萬代橋」を庄内屋シンさんを通して柳原前光に書いてもらいました。


郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について書いています
[PR]

by moekire | 2013-09-23 14:19 | 萌え  

『中央構造線の露頭』と『千と千尋の神隠し』と『湯立て神楽』(遠山郷・霜月祭り)と『遠山藤原学校』。

富士山の世界遺産バカ騒ぎよりも、天然記念物になった『中央構造線の露頭』のほうが重要なのだ。
長野県諏訪湖から南アルプスの脇を通って天竜川下流につながっている長い谷があります。それはグーグルアースで見ると極細の三日月か日本刀の反りのようにはっきりと見ることができます。(国道152号線)
 その真ん中に大鹿村(たいてい山中の鹿と名のつく地名は塩が出ているそうです)があり、日本列島を半分に分けた露頭(写真、灰色と茶色)が確認され、左右の岩の色がはっきりとわかります。
d0178825_543061.jpg

 関東から紀伊、四国、阿蘇を通る『中央構造線』はナウマンゾウに名を残す、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンが命名し、新潟県でもおなじみのフォッサマグナも発見しました。フォッサマグナは糸魚川・静岡構造線と柏崎・千葉構造線の間に挟まれた谷面をいい、枝分かれした新発田小出構造線内に新潟市も入り、その途中に『栃尾』も入っています。
 
『中央構造線』は、もともと水平線のように九州から千葉まで平らでしたが、伊豆半島が嫉妬してぶつかり、今は、諏訪湖のあたりまで押し上げられて、山のような形になっています。その山の形の左稜線が、三日月のように見え、大鹿村や遠山郷(千と千尋の神隠し)がある谷間です。
d0178825_5475377.png

 大鹿村は原田芳雄の遺作映画「大鹿村騒動記」の村歌舞伎の残っているところで、『大鹿村中央構造線博物館』があり、近くで露頭を見ることができます。
d0178825_5584343.jpg

途中に日本一”気”の強い場所(零磁場)分杭峠(ぶんこうとうげ)がありましたが、不純な私はほとんど何も感じませんでした。
また、日本で初めて確認された御池山クレーター(40~50mの隕石が激突した)の谷山があり、さらに南下すると、遠山郷に着きます。

そして、遠山川は天竜川と合流し愛知方面に流れますが、そのまま南下して青峠を越えると静岡県に入り浜松に出ます。そこに秋葉神社があり、そこまでの谷道を秋葉街道(国道152号線)といいます。
秋葉といえばAKBの秋葉でおなじみの火伏の神様です。口から火を吐くガルーダ(迦楼羅カルラ)という神様で、昔から地殻変動での火山や亀裂から鉱物資源(たたら)の宝庫の道でもあります。
 (この秋葉街道は諏訪湖のあたりまでですが、それからの谷道は千曲川・信濃川水域となり新潟県栃尾の秋葉神社へとつながっています。戸隠の大権現が飛行してきたという新潟県栃尾の古い秋葉神社は、江戸時代に浜松の秋葉神社と自分のところが一番古いのだと争ったそうです。大岡裁きでは、栃尾は大権現の修行の地で、浜松は布教の地という裁きだったそうです。)

話はもどり、この秋葉街道沿いに遠山郷の村落(13の神社)があり、『千と千尋の神隠し』の宮崎駿が参考とした『湯立て神楽』の『遠山郷・霜月祭り』があります。
d0178825_5524218.jpg

 その『遠山郷・霜月祭り』は、鎌倉時代の祭りの原型が秘境とともに13の神社に残っていて、現在は人手不足のため8か所くらいで冬至近くに開催されています。
神社といっても、屋根の反り上がった姿ではなく、切妻・直線屋根で、神社名の額が掲げられていなければ、古い木造倉庫のように素朴な建物です。16坪(53㎡)ほどの神社内部にかまどが1基(釜穴は2~3)あり、大きな釜(径約1m)に遠山川の水を『流れに沿って』汲みあげ、薪を焚いて沸騰させます。
d0178825_611235.jpg

風呂のように、釜の湯の中に神様を入れるのだと思っていたのですが、それは間違いで、釜の上空4尺(1.2m)ほどに井桁が組んであり、色々な紙垂(しで)や伝承紙型が下がっていました。そこに八百万の神々を招き置くのです。
d0178825_624130.jpg
 
アニメのように神様たちを風呂にいれるのではなく、神様たちを釜の上空で蒸(サウナ)してやるわけです。そして、日没前からお囃子と、神事が行われ、夜を通して剣舞やいろいろな面をつけたものたち(動物、人、天狗など)が舞い続け、翌日の朝まで行われます。
d0178825_67176.jpg
 
『遠山郷・霜月祭り』の開催神社は13社あり、基本は同じですが、それぞれの神事作法や出し物が違います。
神事や剣舞などが終わると、色々なお面(おもて)を被った者達が登場し、カマドのまわりで演じます。

その遠山郷に伝わる面(おもて)の種類は天狗、さる、狐、翁、しょんべんばばあ、遠山郷の領主など種類は数十面あり、その総数は膨大です。それらが、かわるがわる登場して釜のまわりで舞い続け、クライマックスは大天狗が現れ、素手で沸騰したお湯を四方に向けてまき散らし、それを浴びた者は無事に1年を過ごせるといいます。
d0178825_684437.jpg

遠山郷の領主のお面といっても、顔は大きく、鼻も平たくてデカイお面で、どう見ても、中国(大陸)的な顔立ちで、どうも、地元のお殿様の顔立ちとは違います。都(名古屋)方面から天竜川沿いに伝わってきたお祭りは、お面もそのままの中国(大陸)的なものが多く残されているようです。
d0178825_694024.jpg

徳川側についた二代領主遠山土佐守景直(遠山城主)は家康から食事の誘いを受けます。その時、お椀を手で隠しながら白米を食べていた遠山城主に、なぜ、隠しながら食べるのだとたずねると、貧しい地域なので、掻き込むような食べかたが恥ずかしかったと話します。その後、家康よりお米がおくられ、お椀に箸二本を乗せた家紋をいただいたといいます。(今川の家紋よりも、お椀の○から2本棒(箸)の左右先端が出ている家紋)
d0178825_625398.jpg

その後、深刻な相続争いが起こり、領地を幕府に没収され徳川直轄になったという話です。
そういう表向きの説明とは別に、百姓一揆が引き金となり遠山一族は森の中で村人達に惨殺されたという言伝えがあります。
遠山郷の村民は鎌倉時代から伝わる『遠山郷・霜月祭り』の演目の中に、自らが惨殺した遠山一族の鎮魂をも織り込んで、したたかに生きてきました。

谷の民はそういう、自らの矛盾をも『霜月祭り』に取り込み、それを演じ直す(追体験する)ことで新しく生まれ変わり、明日を生きてきたのだと思います。
神社家屋内は、4間×4間ほどで16坪~20坪で、かまどを中心に神事と面舞いが次々と繰り出し、それを取り囲むようにお囃子と観客が一体となって、夜通し騒ぐわけですから、『熱い、煙い、眠い』が合言葉です。
仮面の化身達と村民の融合をせきたてるお囃子は、ワンフレーズをまじないの様に延々と繰り返し、冬至近くなって光を失いかけている神々の霊力を増殖し、再生をうながします。

案内文に『鎌倉時代に伝えられた宮廷の湯立て神楽に、遠山郷の領主だった遠山土佐守一族の死霊を慰める儀式が組み込まれ、独自の形式で伝承されている。「霜月」の名称は陰暦11月に行われることに由来しており、最も日照時間が短くなる時期に神々を招くことで「万物の生命力をよみがえらせる」と信じられている。』とあります。
そして、天狗やカラス天狗の面(おもて)には、動脈、静脈を表しているのか、赤と同じ数だけ真っ青の天狗面もあります。
猿楽・狂言の始まりなのか、猿や狐、しょんべんばばあの面まであり、それらの登場のときは皆、大笑いでした。
d0178825_6583486.jpg

(演目順番、剣、フリコメ、ヤーハイ、キンタマ、タメタリ、オケツ、タメタリ・・・)

 13の神社での竈(かまど)は鉄製の五徳と土などで固められたカマドの2種類があり。名古屋(都)に近い神社ほど鉄製の五徳(より文化的なもの)が使用されていますが、上流の谷深い地域の神社では土で固めた竈(かまど・文化的でない)が毎年修復され伝承されていました。
d0178825_6303331.jpg
なかでも、上流に位置する白山神社(写真)のカマドは四方に御幣を立てるお椀型土饅頭が“おっぱい”のようで、少しエロチックですし、焚口が6か所あるため、6本足の生き物のようです。
d0178825_6313237.jpg
   
上空の井桁に取り付けられた形紙の切り模様には全て意味があり、真ん中に小さな照る照る坊主のようなものが、2個逆さまにぶら下げてありました。
d0178825_6365296.jpg
d0178825_6371394.jpg

中身は何かと聞くと、豆(五穀)が入っているが、ようは、●●玉だといわれました。なるほど、下は乳房のような土饅頭と焚口には炎が噴き出し、蒸気でむせかえっているのです。
d0178825_6394538.jpg

 とくに、この遠山郷白山神社(写真)の土竈(かまど)はあまりにも素晴しく、思わず感嘆の声をあげてしまいました。

 『湯立て神楽』は釜の水を沸騰させ神様を招き入れます。それは、火と釜と水を使った『料理のカタチ』と似ています。失礼ながら、調理される材料は神様ということになります。
  レヴィ・ストロースの『料理の三角形』・『生のもの』『焼いたもの』『腐ったもの』『煮たもの』に当てはめてみると、どのような構造になるでしょうか。
神様を釜(文化的手段)の中に入れて、お風呂(42度)の温度を保っているわけではありません。湯は常に沸騰(100度)させてあり、釜の上の井桁で神様を『蒸している』という状態です。
しかし、蒸すといっても、しっかり囲われた蒸し器(文化容器)もありません。カマドからあふれ出た煙に燻(いぶ)されてもいますが、燻製製造容器もありません。
空中の井桁では、まわりの空気にさらされて、スカスカの状態ですが、祭りが始まりますと、火の粉と煙と湯気が混然となって井桁上空の神様を包みます。
クライマックスには大天狗が現れ、気合もろとも素手で神様に熱湯をかけます。その時、熱湯の飛沫(しぶき)をあびたまわりの村民は1年間無病息災にすごせるといわれています。

この空中井桁装置では、焼く、蒸す、いぶす行為があり、最後は熱湯をかけて煮るという要素も含まれています。
一つの要素に限られているのではなく、『生のもの』『焼いたもの』『蒸したもの』『いぶしたもの』『煮たもの』と全ての要素が含まれている調理方法ということになります。

西欧の神様は自然も人間も超越した存在ですが、日本の八百万の神様は万物の中にあり、自然に近いものです。
自然に近いものは『生のもの』の範疇に入ります。  
それならば、日本の神様(生のもの)は、放置しておくと自然に腐るのでしょうか。
と考えたら、宮崎駿は、千尋が世話をした神様を『おくされ様』と呼んでいました。
『御腐れ様』とは、良く言ったもので、日本の神様は、1年間放置されると腐ってくる『生のもの』で自然に属するもののようです。
d0178825_6454284.jpg


この、遠山郷の『湯立て神楽』(霜月祭り)は最も日照時間が短くなる時期(冬至)に神々を招くことで「万物の生命力をよみがえらせる」とあります。
招いた神様たちを、風呂釜に入れるのではなく、ましてや、直接火で焼いたり、煮えたぎる釜の中に入れるものでもありません。
古くから伝わる『遠山郷の湯立て神楽』の装置は、釜の上、1.2m上空に井桁を吊るし、そこに紙垂(しで)や伝承紙型を飾り、それらの結界の中に神様をお招きします。
空中(空気中)に置かれた神様たちに対して、怪しい特殊な精力剤などは使わずに、古代から人間が獲得してきた全ての料理要素(焼く、煮る、蒸す、いぶす)を駆使して、おもてなしをし、再生を促しています。
はたして、全ての料理要素でおもてなしをすることに、どんな意味があるのでしょうか。

狭い木造神殿の窓からは光と煙と蒸気が噴きで、中から笑いとお囃子が聞こえてきます。 雪降る山の動物たちが眺めたとしたら、霜月祭りの小さな神殿は一種の生命体のように見えるかも知れません。
すべての要素(焼く、煮る、蒸す、いぶす、空気のまま)といっても、ここにはもう一つの要素、『発酵』がありません。
しかし、それだからこそ、人間は神々の神殿にお神酒をあげてあるのです。

熱湯上空の天蓋に飾られた伝承切り紙『ザゼチ』の揺れるさまで、八百万の神様の片鱗を可視化し、熱気と煙でみずからトランス状態になった村民たちはさらに深いところで神々に近付き体現しようとしています。
日本の神々は、自然(生のもの)と表裏一体のものですから、1年も野に放たれ、空気にさらされると、発酵ではなく御腐れ様(おくされさま)になってしまいます。さすが、宮崎駿はわかっているのです。

また、古代人の思考を探求した折口信夫(釈超空)も1920年(大正9年)、岐阜県恵那市から長野・愛知・静岡3県の接点(坂部)を通って、秋葉街道を交差するように静岡市まで探訪しています。しかし、新野の雪祭りや名古屋方面から天竜川沿いに伝わってきた『花まつり』などは見ていますが、その支流(上流)の遠山川の『湯立て神楽』(霜月祭)までは訪れていませんでした。

そして、学生時代、自転車旅行で偶然立ち寄り、遠山郷に魅せられた藤原直哉さんは、その27年後、この限界村落に『遠山藤原学校』を2007年に開設し、日本再生はここから始まるのです、といって精力的に活躍しています。
私はその第一回・遠山藤原学校(2007年4月21日)に出席し、始めて遠山郷を訪れました。
d0178825_6484185.jpg
(2007年第一回・遠山藤原学校の懇親会、熊と猪と鹿の肉をいただきました)

◆蛇足ですが、なぜか、ナウシカのミト爺の祖先のお面もあった。
d0178825_65265.jpg

d0178825_6551519.jpg

[PR]

by moekire | 2013-08-02 07:04 | 萌え  

もうすぐバードウィーク。新潟市白山公園にカワセミが・・・

バードウィーク(愛鳥週間・5月10日~16日)
4月14日の白山公園のひょうたん池にカワセミがやってきた。蔵織の珈琲を飲みにきてくださるお客さんの写したカワセミの写真です。
同じ日に、犬の散歩で白山公園へいった家内が”ひょうたん池で青い鳥を見た”と言っていました。渡りの途中のオオルリだろうと返事をしておいたのですが、この写真で正体はカワセミということがわかりました。
d0178825_1923729.jpg
白山公園では、昔、シカ、クジャク、さる、アヒル、クマなどがいましたが、カワセミの写真を見たのは初めてです。(昭和35年ころの住宅地図)
d0178825_0223761.jpg
なかなかかわいい、何度も池の中に突っ込んでいたそうです。
d0178825_23465432.jpg
下の野鳥も池の中に入っていたとのことですが、ヒョドリでしょう。水浴びはするそうです。カワセミの(オス)と(メス)のちがいは?くちばしの下が赤いということです
d0178825_23473595.jpg


カワセミの(オス)と(メス)のちがいは?


新潟大火1955年(昭和30年)以後の地図・西堀朝市、白山神社に熊がいた



ロビン アート スタジオのロビンとは『Japanese Robin・こまどり』のことで駒鳥と書く


愛鳥週間(バードウィーク)、蔵織で2008年に野鳥写真展をやった兄の写真です。

鳥たちの四季
[PR]

by moekire | 2012-05-02 23:39 | 萌え  

添田知道の歌、土取利行さんの声とテンポがすばらしい

土取利行さんはフリージャズ、即興演奏のパーカッショニストの印象が強かった人ですが、竹久夢二の詞「どんたく」に曲をつけて奥様の桃山晴衣女史(故人)と弾き唄っている。 なんとも言えない世界だ
また、添田知道の歌も土取利行さんが多く弾き唄たっている。土取利行さんの声とテンポがこれまたすばらしい。
添田唖蝉坊・生活戦線異状あり/ 土取利行(弾き唄い)Toshi Tsuchitori
土取利行・邦楽番外地 添田唖蝉坊(作詞)・生活戦線異状あり/ 土取利行(三弦弾き語り・編曲)昭和5年、作曲は佐々木すぐる。

平成24年の現代を唄っているようです。

添田唖蝉坊 ・あきらめ節 / 土取利行(弾き唄い)
添田唖蝉坊・むらさき節/ 土取利行(弾き唄い)


奥様の桃山晴衣女史(故人)

落語『立切れ』で最後の三味線の音が聞こえてくるところ。(たちぎれ線香:読む上方落語・世紀末亭 )
落語:立切れ(立切れ線香)(最終段のみ)/ 五代目桂文枝+桃山晴衣(唄・三味線)
落語「立切れ」五代目桂文枝(三代目桂小文枝)+桃山晴衣(唄・三味線)昭和49年10 月25日東京青山タワーホール
「立切れ線香」ともいわれる上方屈指の落語の大ネタ。昔は芸者の花代を線香の立ち切れる時間ではかったことから、最後の落ちに辿り着く。描写が難しく大看板の噺家しかでき­ないとされる落語で、当時の桂小文枝は、はめものとして下座が演じていた地唄「雪」を、特別出演で桃山晴衣に依頼し噺をさらに劇的にしている。


桃山晴衣/ わすれな草(竹久夢二・詩)Wasurenagusa/Harue Momoyama

遊びをせんとや生まれけん/桃山晴衣  Harue Momoyama/ Was I born to play



土取利行の音楽世界

桃山晴衣のうた語り


添田唖蝉坊

竹久夢二のどんたくを土取利行&桃山晴衣が唄っている。


たちぎれ線香:読む上方落語・世紀末亭
[PR]

by moekire | 2012-04-03 10:17 | 萌え  

石子順造②赤瀬川原平『革漫同鱗羽烏蘇里虎飛行の図』

石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行

つげ義春の絵では左の子供が目をつむっているのに対して、漫画主義では二人の子供は目をあけている。はたして、子供たちが見た画像は?
李さんの脳天軸を中心に左右に回転すると、吹き出し文字には『実はまだ続いているのです』とあり、黄色い炙り出しのようにNo6号の表紙絵がうっすらと見える。『革漫同鱗羽烏蘇里虎飛行の図』(かくまんどううろこはねうすりぃとらひこうのず)だ。
d0178825_1524883.jpg
d0178825_153242.jpg

私の持っているポスターの『革漫同鱗羽烏蘇里虎飛行の図』では口にタオルを当てていない。なぜかは不明。(BEST DANGEROUS THOUGHTSと文字にかかる背後の雲のような物体はなんだろう?まる焼けチキンかまる焼けダンボのようにも見えるが、煙を描いていてうまくゆかなかったのか?)

d0178825_211641.jpg
冊子表紙『革漫同鱗羽烏蘇里虎飛行の図』1969年
d0178825_2113278.jpg
下、漫画主義ポスター(赤瀬川原平)
d0178825_2132882.jpg
              フランスのイラストレーター、アングラポスター研究家
d0178825_8242271.jpg
ブラウン・セシル(Brun Cecile)さんのHP
ピシャー・オリビエ(Pichare Olivier)さんのHP(少し重い)



蔵織1968年~1972年 アンダーグランド ポスター展(2007年)


フランスのイラストレーター、アングラポスター研究家のブラウン・セシルさんがやってきた


漫画主義 No6 1969・3・20
かつて劇画は生き死をその本体とした-戦後意識の惨めな転回と劇画- 権藤晋
「戦記マンガ」批判の思想を撃つ-石子順「少年漫画と戦争」批判-梶井純
意味の世界のタブーを犯す-林静一論- 上野昂志
大衆文化としての漫画 斉藤次郎
ナンセンス・ギャグ・マンガ論のために②あほらしさ、情況への痛覚-なぜ<ナンセンス>なのか- 石子順造
座談会 子どもマンガ情況の頽廃と批評の力 漫画主義編集委員会
つげ義春論 つげ義春と「随筆」の距離 新崎智
つげ義春論 つげ作品の生涯と情念 
手塚治虫試論② 何がロックを殺したか 菊池浅次郎
[PR]

by moekire | 2012-02-14 02:35 | 萌え  

侘び・寂び・萌え・切れ

「侘び・寂び・萌え」という言葉は、漢字Tシャツと同じ感覚なのか、欧米でも定番となった。「萌える都市アキハバラ・趣都」の著者森川嘉一郎が最初に言い出したのかは知らないが、三つの言葉の並列で「萌え」の気分が少しわかったように思えた。
それでも「侘び・寂び・萌え」に何かもう一つ足りないような気がしていた。
つらつら考えていたときに、なんとなく浮かんできた言葉が「切れ」だった。
「Wabi・Sabi・Moe・Kire」として遊んでみた。

「あらうみや さどによこたふ あまのがわ」の「荒海や」の「切れ」であり、
アラレちゃんの”んちゃ”「切れ」でもあり、エバァの14歳の「切れ」でもあり、2008-6-8の歩行者天国に突っ込んだ男の「切れ」でもある。
「切れ」は「萌え」の背後の眠り龍のようでもあるが、「侘び・寂び」の深みを照らす。

 ●戦後4~5年たった時の写真。昭和25年(1950年)ころ。 
 昔の子供たちに「萌え~」だ。
d0178825_250896.jpg

新潟市中央区西堀前通の子供たち。
現代の写真集にありがちな、アフガンやアフリカの難民キャンプで追い求められた天真爛漫な子供の笑い顔ではない。戦争が終わって4~5年たった新潟の子供たちの表情である。広島、長崎に原爆が落とされ、小倉と新潟が次の標的といわれた。市民に半径12Km以外への避難命令が出されたが、逃げる途中で終戦(1945年)となったと聞いた。原爆避難命令で都市が空っぽになったのは新潟市だけである。
戦後間もない大人たちは大変だったのだろう。ほおっておかれた子供たちはただ群れて遊んでいた。
誰が撮ってくれたのかはわからない。カメラを向けた大人への目線は少し戸惑っているが自然体である。両手の指を無意識に合わせたしぐさに「萌え」だ。布か紙を持っている子供を除いて、誰も何も持ってはいない。グローブもバットも無かったが、しばらくして布製の手作りグローブが現われた。
反抗期はあっただろうがみんなは「切れ」ることなく14歳を通過し、大人になった。(左端のタダオ君は飲食店やホテルの代表となり活躍したが50代末に鬼籍に入る。(黄金の日々))
堀の両側に道があり、向かい側はアスファルトでバスも走っていた。子供たちの下駄の下は土の道路で、堀の淵には柵も無かった。それでも落ちて死んだ子などはいなかった。
素足に小さな下駄がかわいい。新しい下駄をなかなか買ってもらえない、というよりも、子供の成長のほうが早かったのだろう。水虫など無縁だった。
新潟市は昭和30年代末まで、古町通りをはさんで西堀、東掘があり大河信濃川の水を利用した生活運河をはりめぐらせた水都だった。特に西堀は桜と柳が交互に植えられていて、春には満開の桜の花のトンネルが千メートル(1~9番町)も続いていた。(新潟市西堀界隈に桜を植える会)
[PR]

by moekire | 2010-07-03 03:33 | 萌え