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新潟地震50周年の2014年6月16日新潟市立白山小学校の避難訓練(1964年6月16日13時1分41秒新潟地震発生)

新潟市立白山小学校の避難訓練に行ってきました。50年前の1時1分41秒に警報が鳴り、生徒は机の下にしっかりと身を屈み。その後、津波が来るというので300余名の全校生徒は屋上に速やかに避難しました。
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50年前の全
校生徒数は1213人で約4倍の生徒数でした。その時は今集まっている屋上が、というよりも3階建ての校舎がパックリと割れ、1階の職員室から屋上の青空が見えたそうです。津波の引き波で信濃川の河底が見え、当時の生徒も屋上に避難したそうです。屋上の割れ目は20~30cmで、やんちゃな男子生徒はその割れ目を飛び越えたりして、先生にげんこつをもらっていたと、当時白山小学生だった蔵織・日本画塾の近藤先生が話してくれました(飛び越えていたのは近藤先生本人です)。
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(割れたプール)
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現在の校庭の右に体育館、その奥にプールがあります。当時の完成したばかりのプールは正面の森のところにあり、真っ二つに割れてしまいました。体育館の位置はそのままで、地割れた昭和大橋登り坂の左に写っています。昭和7年にできた鉄筋コンクリートの校舎は、液状化であちこち傾きましたが崩れることなく生徒を守りました。
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(公会堂(現・音楽会館)の大時計は地震発生時の1時1分で止まっています)
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蔵織のある西堀地区の人々は白山小学校に避難することになっていますが信濃川に向かって進むことになります。お年寄りも多くたどり着く前に津波がやってきそうです。川と反対方向の新潟大学病院の高台か、目の前の耐震工事の済んだ地方裁判所の屋上が一番地安全ではないかと検討中です。








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by moekire | 2014-06-18 18:55 | 新潟市のこと  

坂口安吾が入園した『新潟市西堀幼稚園』(明治43年創設)のお雛様を見てきました。

坂口安吾が入園した『新潟市西堀幼稚園』が昭和41年に移転した『新潟市立八千代保育園』(新潟市中央区上大川前2)のお雛様を見てきました。

園長さんをたずねますと、『今日(3月4日)の午前中まで飾っていましたが、午後からかたずけてしまいました』とのこと、片づけ早すぎ!

湊にいがた 雛人形・町めぐり』ではだいたい3月半ばまで飾っておきますが、お嫁に行けなくなると父兄に文句を言われるのか、毎年4日にはかたずけてしまうそうです。 それでも、園長先生に御無理を言って、内裏雛だけ見せてもらいました。

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戦前の保育園の卒園アルバム(昭和4年、7年、17年)の写真に雛段が写っています。
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昭和4年のアルバム
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昭和7年のアルバム
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今の内裏雛は大正~昭和初期と私は思いますが、アルバムの写真のものか、まだ確認はできていません。

飾らなかった、もう1セット有るそうですが、来年見せてもらうことにしました。また、『青い目の人形』のケースが昭和4年と7年のアルバムに写っていますが、17年の写真には写っていません。戦争が近づいていたためかもしれません。

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昭和17年のアルバム
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八千代保育園では、この『青い目の人形』ケースも見たことが無いと言っています。 『青い目の人形』についてはハイカラ文庫さんに詳しく載っています。

青い目の人形と新潟雪子① http://hikarataro.exblog.jp/20774874/

 青い目の人形と新潟雪子② http://hikarataro.exblog.jp/20802862/


坂口安吾が入園した新潟市立西堀保育園(幼稚園)

http://moekire2.exblog.jp/19034232

 







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by moekire | 2014-03-06 22:24 | 新潟市のこと  

間章の墓参り・その② 『なしくずしの死』は『なし崩し的な死』か?

1978年12月12日は間章の命日。勝楽寺へ墓参り-①
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〈なしくずしの死〉への覚書と断片 間章著作集 II
今年、2013年11月に
発刊(月曜社)された。
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また、『阿部薫写真集 OUT TO LUNCH写真・文:五海ゆうじ

も出版され、渋谷GALAXY-銀河系にて写真展阿部薫12葉の写真+2」が開催された。そこで写真家の五海ゆうじさんに始めてお会いした。『割れた鏡または化石の鳥』のアルバム写真の両手を広げた吉沢元治の写真が印象的でずっと気にしていたカメラマンであった。こわもての写真家と思っていたが、ずいぶんやさしい人で写真集にサインをしていただいた。

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レコード『阿部薫-なしくずしの死
MORT A CREDIT)
1976年・間章プロデュース)
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(伝説的なアルト・サックス奏者の阿部薫が生前に唯一発表したソロ作品(1976年)。阿部薫は1978年の99日に29歳で自殺か薬事故で死亡。同年3か月遅れて、間章が1212日脳溢血で亡くなる。死の直前、ドラマーの日野明(晃:現武術家)が北海道で共演していて、阿部の死を予見していたという。(日野明といえば、和歌山の手造り大型道場の建設に吉沢元治が手伝っている。また、武術身体の動きでダンスのフォーサイスとの交流も深い)
 
 

間章の文章は読む者の襟足に冷風を送り、悪寒と嘔吐を礼賛するような幻惑的な言い回しが多い。しかし、間章には、頭でひねり出した悦な

言葉を文章にしたということではなく、その吐き出された時の異物(胃物)は体温と同じ温かさだというリアルさがある。

『なしくずしの死』という言葉は、ルイ・フェルディナン・セリーヌLouis-Ferdinand Céline)のMORT A CREDIT

『なしくずしの死』からの関連ではあるが、『なしくずしの死』は『無し崩し的な死』か?

生きとし生きる人間にとって、生はプラスで『死』はマイナスイのメージで、『くずし』は崩す、『なし』は無いのイメージであり、『なしくずしの死』はやはりずるずると死に向かってのマイナスイメージのカーニバルなのか。
しかし、国語の辞書では、借金を済(な)し崩す=借金を少しずつ返し崩すこととある。 間章の子供のころの新潟では『これを○○さんになしてこい』(返してこい)と言っていた。 『なしてこい』は『電車がずる』(動く)とか『げっぽ』(最下位、ビリ)とかいう新潟の方言と同じものと思っていたが、『済(な)してこい』は正しい言い方であった。もう少し田舎に行くと『ながなせ』(おまえがかえせ)とも言っていた。

そうであれば、『済(な)しくずしの死』は『死を少しずつ返してゆく』という意味で、プラスのイメージになり、『死を少しずつ返す』ということは『生を少しずつ取り戻す』ということになる。

『済(な)しくずしの死』は『生を少しずつ取り戻す』となり『無しくずしの死』は『済(な)しくずしの生』となる。 ルイ・フェルディナン・セリーヌLouis-Ferdinand Céline)のMORT A CREDIT『なしくずしの死』の翻訳の意図はわからないが、間章のひらがなで書かれた『なしくずしの死』は『なしくずしの死』と『なしくずしの生』の両方の意味を含んでいる。

少しずつ『生』の足元を崩しながら死を豊かにし、『死』の淵をずり落ちながら、『生』を満喫するとでもいうような・・・・。

いずれにせよ、その岩肌を素手で削る音が音楽となり聞こえてくる。私たちはその生と死をより豊かに、またより満喫するために、芭蕉がいうように習らわなければならない。松のことは松に、サックスのことはサックスに習えと・・・。 

 

間章著作集の公開読書会が高円寺でおこなわれている。主催:須川才蔵さん

2014年1月6日(月)は第19回目で 『刊行直後の間章著作集第2巻『〈なしくずしの死〉への覚書と断片』から、セシル・テイラー論を検討します。当日プリントを配布しますので、初めての方もお気軽にどうぞ!』とある。

場所は東京都杉並区高円寺駅前 『円盤』


1978年12月12日は間章の命日。勝楽寺へ墓参り-①

 

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by moekire | 2013-12-15 13:29 | 新潟市のこと  

1978年12月12日は間章の命日。みぞれの中、勝楽寺へ墓参りへ

間章は1946年に生まれ、亡くなった時が32才で、死んでから35年が経った。
1978年12月12日は間章の命日で、みぞれ混じりの日暮れ時、墓参り(勝楽寺・西堀8)に行ってきた。向かいのビルの窓明かりの反射か? 墓石が変に光っていた。
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帰りに、駅南ケヤキ通りのカフェドラペさんによった。マスターの安宅さんと間章の話をしながら、吉沢元治のベースソロ、『インランド・フィッシュ』を全曲聞いていた。 こういう日は、2曲目の『窓』が一番いい。
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間章のプロデュースで、1974年(新宿安田生命ホール)、吉沢元治ベースソロコンサートが開かれた。当時はベースソロでも400人以上入が集まった。
翌年『インランド・フィッシュ』LP盤のイラストを描き、私のおやじにINLAND FISHと筆文字で書かせた。
写真は『インランド・フィッシュ』復刻CDと間章のお父さんのマイカップ。
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お父さんは昔から、ラペさんに珈琲を
飲みにきていて、脳溢血で 半身麻痺になった後も、ベガーズの亀田さんのフォローで飲みに来ていたという。亡くなった後、カップだけが残され、今もラペさんに飾ってある。オールドビーンズにはちょうどいいサイズで、ロイヤルコペンハーゲンと並ぶと高価に見えたが、底を透かすと芸者さんが笑っている。外人向けのお土産カップで、章のお父さんの茶目っけぶりがうかがえる。
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間章のお父さんは高度成長期の『一人不動産屋』で、どういうわけか、幼い章をよく連れて飲み歩き、父が帰るまで、店の外か、店内の隅で待たされていたと、間章は話してくれた。喫茶マンハイムのオーナーだった母上はどうしていたのだろう。店がいそがしく、夜の子供たちは父親任せだったのだろうか。
妹が20代で、間章が32才で亡くなった。その後両親も墓に入いり、後から誰も入ることのない墓が寒さに発光していた。


間章(あいだあきら)
http://ja.wikipedia.org/wiki/間章

吉沢元治 - Inland Fish (1974)
http://www.youtube.com/watch?v=Cxf7qKpn6vg
2番目の『窓』は先回、蔵織での『やまいを舞う』で渋谷陽菜さんに踊っていただいた。


1978年12月12日は間章の命日―その②へ 
『なしくずしの死』は『なし崩し的な死』か?




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by moekire | 2013-12-15 12:21 | 新潟市のこと  

亡くなった炎舎の店主小川俊充さんとオイリュトミーと蔵織と俳句

ギャルリ-炎舎(えんしゃ)さんのご主人、小川俊充さんが亡くなりました。

よりのつづき

それ以来、器の『要』について小川さんのうん蓄をたびたび聞かされました。器の面白さにハマると、底なしであろうことは感じていましたので、半分真剣に、半分うわの空で聞くようにしていました。
それよりも店の隅々に無造作に飾られた、いたずら描きのような絵やオブジェがありましたので、これは小川さんが描いたものかとたずねると、そうだと答えました。段ボールを引っかいたり、きざんで色を付けたものや流木の板に添えられたオブジェ、落書きのように描かれた絵は、絶妙な雰囲気を醸しだしており、個展として飾られている器作家の作品よりはるかに魅力的なものでした。特に、仙人風意識なども忘れ、無心に創られたものは絶品です。
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小川さん本人の個展をやらないのですかと聞くと、『むふふ、まはぁ~』といって、半分いやいやという顔をして、半分まんざらでもない顔をしていました。
近々、西堀に古民家を利用したギャラリー蔵織をオープンしますので、炎舎オーナーの個展を蔵織で、蔵織店主の個展を炎舎でやりましょうかと、気軽に言い合っていたのですが、かなわぬものとなりました。

昔(1970年代)の新潟の話をしていた時に、たまたま、シュタイナーの話題が出ました。私も1974年に間章から聞かされて知ったシュタイナーの建築フォルムに魅せられて、のめり込んでいた時がありました。折しも、1975年、子安美知子の『ミュンヘの小学生』が出版されシュタイナーの教育実践効果も流布されました。その中のダンスのようなものをオイリュトミーといい、『意識と身体の乖離を埋め、言葉と音楽の力を全身の動きに変換し、体内(ミクロ)エネルギーを宇宙(マクロ)エネルギーに関連づける身体運動』とでもいうものです。
そんなオイリュトミーを29才当時の小川さんが踊っていたという話を聞いた時にはビックリしました。目の前の仙人のような風貌とオイリュトミーと全然繋がらなかったのですが、昔を思い出し、狭い炎舎の中で小川さんはひらひらと踊りだしました。
後日知ったのですが、1983年、新潟市での第一回オイリュトミー集中講座(舞踊家・笠井叡(あきら) 氏)に鳥の歌(本町2)の店主、早津さんが、小川さんと一緒にオイリュトミーを踊っていて、早津さんもそれ以来の知り合いだと言っていました。

しばらくして、炎舎さんの並びに築百年の町屋をギャラリー蔵織としてオープンしました。お金がなかったので、前の住人が使っていたプラスチックの照明器具をそのまま和紙で包んでしまおうと思い、ホームセンターで色々な和紙を買ってきて、照明カバーを作りました。
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こういうことは小川さんが好きそうだと思い、自由に作ってみてはと言って、数種類の和紙を炎舎さんに置いてきました。案の定、小川さんは悪乗りしてくれて、数日後、細い枝を四角に組んで、そこに和紙を絡めたものを両手に抱え、蔵織まで持ってきてくれました。あいにく、風に吹かれ、抱えている和紙のオブジェは半壊してしまいましたが、取り付ける時になんとか形にしました。蔵織の喫茶室の照明がそれです。そのあとはもう少し堅い和紙で作ったもので、私がトイレ前のダウンライトの下に画鋲でとめました。枯れたおくらの茎が二本添えてあり私の好きな照明です。
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よほど本人も面白かったのか、2階階段上のカバーにはクレヨンで何か描いてあるものも持ってきました。
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万一ほしい人がいたら売ってしまうから、作家名を書いておいてと言ったら『むふふ、まはぁ~』といって『25.000 和照明具 村明隆風』と書いたものが5年間まだ蔵織の柱脇に貼ってあります。(蔵織に来た時に見つけてください)
天気の良い西堀の歩道を両手で抱え、風から和風オブジェを守りながら歩いてくる小川さんの姿を今も鮮明に覚えています。

少しピンボケですが蔵織オープンパーティで小川さんの元気な姿が写っておりました。
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元気がよすぎるので、小川さんだけぶれています。(右からせきやさん、小川さん、左端が坂爪さん)
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東日本大震災後のある日、3.11以降、DMを出しても見に来てくれるお客さんががっくり減っていると、いつになく真面目に言っていました。仙人のような『むふふ、まはぁ~』という雰囲気はなかったので、3.11以降はギャラリー関係はどこもそうですよと相槌をうち、蔵織などは3.11以前からつぶれそうですよ『がははは~』とカラ元気で答えたことを覚えています。

それからしばらくすると、小川さんは炎舎を休んでいることが多くなっていて、具合が悪いのだろうと思っておりましたら、知らない女性の方を見かけるようになりました。後でわかったのですが、その方が奥さんでした。奥さんとは初対面なのでストレートに病状は聞けませんでしたが、深刻な事態であることは察することができました。
手術をしたと聞き、旨いものを食べさせてほしいと、お見舞いを渡しましたが、ベットの中でも頭と筆くらいは使えるはずだと思い、つたない俳句を書いて奥さんに渡しました。

手術後、ご自宅の近くをゆっくりゆっくり歩いているお二人に偶然出会いました。ひどく痩せてはいましたが元気そうでしたので安心しましたが、のちの返歌を見て覚悟を知りました。

炎舎退院す

割れずとも病むことのある夏茶碗

青青と巣立ちの後の夏瓦
                        恒風

散文が得意な小川さんは、俳句などやったことがないぜ、適当に書いた、といいながら、返してくれました。

病むたびに味わい深くなりにき黒茶盌

熱すぎて道に迷うてばかりの旅立ちかな
                           酔魚

酔魚が小川さんの俳号です。私には覚悟を決めていたことが伝わってきました。
また、返して

逃水や 迷うは力 焼織部

病むほどにもの見えてくる秋の水

水澄んで亀の泳ぎの酔い魚
                     恒風 2012-8-10

炎舎によく行っていた田代さんが蔵織に来たので、あなたも参戦しなさいといって書かせた句。

銭亀の逃げいしはずが戻りきし

                    草猫 2012-8-21

以上は奥様を通して小川さんに伝えてありました。

昨年(2012年)の暮、小川さんに二度、炎舎の店内でお逢いしました。一度目は、小川さんがたまたま病院の帰りに炎舎に寄った時で奥さんや作家さんなどもおりました。

最後に会った時には店に小川さん一人でいて、奥さんは留守でした。めちゃくちゃ痩せてはいましたがしっかりと立っていました。少しは快復したのかなと思ったのですが、やはり疲れているようでしたので、椅子をうながしました。
覚悟を決めた者とそれを知っている者の会話などはありません、慰めるどんな言葉も陳腐になってしまいます。
お互いしばらく沈黙が続きましたが、私が初めて炎舎を訪ねた時のように、気にいった焼き物を指さしてこれはいいねと言うと、小川さんは堰を切ったように話し始めました。
いくら仙人でも受け入れがたい現実に憤りを感じ、悔いも残っているはずです。質こそ違え、そこのところは痛いほど感じます。
小川さんは自分の現状を打ち消すように、私の指差した器のことを饒舌に話し続けました。やっぱり、器のことを話す時は生き生きしています。私はそれを頷いて只々よく聞き続けていました。

今年(2013年)の1月20日、私は向かいの床屋さんの帰りに炎舎さんによって、奥さんに小川さんの様子はどうかと訪ねると、15日に亡くなりましたという返答です。思わず絶句しました。
お店は作家さんの個展をそのまま開いて、身内で静に葬儀を済ませたそうです。

あらためた香典などはかえってめんどうをかけることになるので、作品を買うことが小川さんが喜ぶことだと思い2点買い求めました。小川さんがいれば、この2点の器(星野貴代氏作)にどんな言葉を添えたのでしょうか。

小川さんに伝えていなかった句。実は、2012-8-10に、     

温かき嘔吐もわが身白南天

と書いて

炎天に 旅立つ時を忘れけり

炎夏果て 静かに冷える登り窯
                     恒風

合掌 




ギャラリ-炎舎(えんしゃ)さんのご主人、小川俊充さんが亡くなりました。①


炎舎の小川俊充さんの彼岸からの『ことば』をもって焼き物のことが『わかる』
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by moekire | 2013-02-16 17:03 | 新潟市のこと  

公益財団法人『にいがた文化の記憶館』がメディアシップ内に開設。藤蔭静枝(静樹)の写真が・・・

新潟県出身者の文化人が残した業績を後世に伝える拠点施設
『にいがた文化の記憶館』が公益財団法人となり2013年2月オープンの新潟日報新社屋『メディアシップ』(新潟市中央区万代3)内に開設されるそうだ。同館長の神林恒道(現・会津八一記念館館長)氏が寄付を募っている。
なぜか、庄内屋しんさんの妹芸妓・藤蔭静樹(内田八重・藤蔭静枝)の写真が掲載されている。
蔵織の『新潟花街史を語る』(11回シリーズ)でも藤村誠先生に詳しくお話していただき、また、10月の蔵織・夜話で長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長さんに『藤陰静枝の舞踊』という題で講演していただきました。
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日本人で初めて日本舞踊をパリで公演した人で、新潟の妓楼・庄内屋シンさんの妹芸妓(庄内屋八重・内田八重)である。新潟から東京新橋芸者になったころは、シンさんが援助していた。のちに永井荷風と結婚するが、荷風の浮気で、半年で静枝のほうから三行半の文を残してわかれる。新潟時代から和歌を詠んでいるほどの文学芸妓で、東京の新橋あたりをうろついている文化人たちに臆することなく対等に付き合っていた。踊りは新潟の当時の2大家本元(市川流、市山流)の市川流の市川登根によって厳しく鍛え上げられた。のちに、幼少のころより稽古で市山登根に何度もたたかれていたが、その厳しさに感謝していると語っている。終戦前後、新潟・柏崎に避難。戦後1964年(昭和39年)文化功労者となる。
(昭和58年(1983年) 市川流藤間小藤が逝去、新潟の市川流が途絶える。現在新潟では市山流が柳都さんを指導している。)
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内田八重
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市川登根
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左・藤蔭静枝、右・晩年の庄内屋シン
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庄内屋シン

郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について書いています

初代萬代橋の親柱の橋名「萬代橋」を庄内屋シンさんを通して柳原前光に書いてもらいました。
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by moekire | 2012-12-15 01:07 | 新潟市のこと  

『若冲・応挙の至宝』展の中に『十牛図』(周文筆)が飾られていた。

みなとぴあと会津八一記念館で『若冲・応挙の至宝』京都相国寺と金閣・銀閣名宝展11月25日(日)を見てきました。
みなとぴあの駐車場は満員。警備員の人がレストランのイベントのため、待ってても全然空くことがありませんと言われて、みなさんユータウンしていました。せめてレストランとみなとぴあ展示本館分と駐車場を半分に分けておいたらいかがなものかと優しく文句を言っていたら偶然1台分空いて入れました。ラッキー。
『若冲・応挙』は有名なのでいまさら言うまでもありませんが、伝、周文筆の『十牛図』が展示してありました。20代後半ユングにのめり込んでいたころ、関連書籍でみてずっと気になっていた『十牛図』の絵に出会うとは、またラッキーでした。
色々な『十牛図』の絵がありますが、やはり伝、周文筆の『十牛図』の絵にひかれていました。自然の中で牛をさがすというよりも、なしかしら不安な少年の姿が印象的ですし、牛の勝手な表情や牛の背で横笛を吹く少年の顔も穏やかで、描いた周文の悟りの深度がうかがえます。
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 ①尋牛(じんぎゅう)
  牛を見失っている少年の足は素足である。
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 ②見跡(けんせき)
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③見牛(けんぎゅう)
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 ④得牛(とくぎゅう)牛を捕まえる激しい状況に合わせて柳の枝が揺れている。
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 ⑤牧牛(ぼくぎゅう)
牛の目線は親しみを持って少年の姿を追っている。桜の花が咲いている。
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 ⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)
少年は両手を離して笛を吹く余裕があり、牛も得意そうである。人牛一体。
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 ⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
牛の姿はもうない。求めていたものは己の中に。それにしても、立派な建物です。庵ではなく修行堂の端か?千鳥格子の石畳みでドアは無いがカーテンがある。
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 ⑧人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
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 ⑨返本還源(へんぽんげんげん)
自然。川と梅と笹か?松竹梅ではなく、水竹梅。松は次の画像に顕れる。
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 ⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)
- まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。

と書いてあるが、牛を追った少年が悟りを開くと、はだけて腹のたるんだ(布袋様のような)人になtってしまうのか? 人このことは言えないが、現代社会ではだらしない肥満は自己管理のできない人間といわれていると、突っ込みを入れてみたくなる。
ビジュアル面では他人に無防備・安心・豊かさを与えるための仮の姿で、内心は全てを超越して、無垢と啓発の修行へ踏み出し、新たな少年と出会っているシーンなのだろう。 それにしても、新たな少年の足には何かの履物が見えるが、腹のたるんだ(布袋様のような)人の足はあいかわらず裸足だ。
大きな袋の縫い目は合理的で、少年に与えようとしている竹籠の中身は何なのだろう。
この姿では寒さで風邪をひいてしまうが、布袋様こそサンタクロースの原型である。
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by moekire | 2012-11-24 09:42 | 新潟市のこと  

新潟市生涯学習センター主催の「市民大学」で東洋文化新聞研究所代表・羽島知之先生の講演がありました。

新潟市生涯学習センター主催の「市民大学」が始まりました。
「市民企画講座」というものがあり、『蔵織夜話』河井継之助記念館長・稲川明雄先生の歴史講座に参加されていた、
鈴木哲氏の提案企画「そとから見た新潟の歴史」が採用され, 始まりました。
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テーマの「市外(そと)からみた新潟の歴史」は新潟市の外側からの視点で色々な先生に語っていただくという企画です。新潟市内部だけの視点ですと井の中の蛙的になってしまいます。複眼的な内容と多彩な講師陣を配して新潟の歴史を読み解くという鈴木氏の発想で、その多彩な講師の先生方に一人一人交渉し具体的な10回シリーズにまとめ上げた鈴木氏の行動力には感心させられます。

■ 9月29日、第3回講座 「新聞事始ー新聞誕生と草創期の新聞事情
先日第3回目の講座で東洋文化新聞研究所代表・羽島知之先生の講演がありました。 (にいがた文明開化ハイカラ館)
貴重な資料 「草創期の新聞」-日本で最初の邦字新聞、官板「バタビア新聞」文久2年や新発見の民間新聞の祖、「新聞誌」慶応元年など数多くの博物館クラスの原紙を持参してもらい、初公開して頂きました。


我が国草創期の新聞

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講演前の展示作業。
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講演前の見学。
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羽島知之先生は70代半ばでですが、今でもジムにかよって体を鍛えているそうです。
また、羽島知之先生は東洋大学大43代校友会会長でもあります。長岡校友会で長岡花火を見、翌日新潟に二泊しました。なんと、一泊を蔵織に泊っていただきました。
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新潟市のSさんと昔の新聞の話。
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昭和20年の長岡空襲が載っている新潟日報。
新聞統制:1942年(昭和17年)新潟日日新聞、新潟県中央新聞、上越新聞の3紙が合併し、「新潟日報」が誕生。題字下に毎日、読売、朝日新聞とある。
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書籍多数
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by moekire | 2012-10-06 13:26 | 新潟市のこと  

旧齋藤家別邸が6月9日から一般公開

整備工事が行われてきた旧齋藤家別邸が6月9日から一般公開されます。

旧斎藤家夏の別邸 、北側の窓は意外と明るい
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http://saitouke.jp/ 「齋藤家別邸ホームページ」
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by moekire | 2012-06-07 08:45 | 新潟市のこと  

リストランテ Sasaki (ささき)さんの大時計

洋食・南欧料理 リストランテ Sasaki (ささき)さんの大時計
新潟県新潟市中央区西厩島町2338-1
明治期、佐々木さんの屋号は『雪佐』といって、長岡から冬季貯蔵の雪氷を船で運び、60cm角にして料亭、医療施設に販売をしていたそうです。(詳しくは、みなとぴあ・新潟市内の雪の販売について
その後、冷菓、お菓子屋を生業とし、現在はレストランを市内数店舗経営しています。
お菓子屋の時代に巻町の同業の松見屋(安川家)から和(かず)おばあさまがお嫁にきました。その時にこの大時計を持ってきたそうです。
また、この大時計は巻町の名家内木家(大屋敷)の離れ(3階建て)を安川家が購入したときに、大時計も一緒にゆずりうけたそうです。
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佐々木和(かず)おばあさまと大時計
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(sさん大時計の解説を・・・)
Sさんから写真が送られてきた。
佐々木さんの屋号は『雪佐』といって、長岡から冬季貯蔵の雪氷を船で運んで販売していた。
雪室・雪山を造る長岡の写真。給水塔が見える。大正15年(1926年)竣工であるからそれ以降の写真。
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洋食・南欧料理 リストランテ Sasaki (ささき)さん
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by moekire | 2012-05-28 11:04 | 新潟市のこと