カテゴリ:新潟の昔のこと( 10 )

 

昭和7年の『新潟市立西堀幼稚園』の卒園アルバムに『青い目の人形』が写っていた。

昭和7年3月、卒園アルバム(思出で)をSさんが発掘しました。
 表紙には、新潟市立鏡淵・西堀幼稚園とあります。(鏡淵と西堀という文字が並列にあらわされていますので、鏡淵幼稚園と西堀幼稚園が一緒にあったのかも知れません。)
 正面の門には右側に『市立西堀幼稚園』、左側に『新潟夜間女学校』とあります。昭和37年の住宅地図には西堀社会館洋装部とある何か関連があるのか?
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 昭和7年→昭和17年→終戦→昭和27年と、くしくも、10年ごとの写真が見つかったことになります。こうやって並べて見てみますと、昭和7年の子供たちのほうが、身なりもしっかりと豊かな雰囲気です。終戦後、7年目の子供たちが一番貧しそうですが何かリラックスしています。(卒園アルバムはなく、卒園集合写真1枚のみです)
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昭和7年
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昭和17年
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戦後、昭和27年

 昭和7年のお雛様の右脇に『青い目の人形』が写っていますが、昭和17年の雛祭りの写真には姿を消しています。
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昭和7年、青い目の人形が大切に箱の中で飾られている。
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昭和17年の雛祭りには、青い目の人形は無い
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 Wikipediaの『青い目の人形』には 
 (日露戦争後に日本が満州の権益をにぎると、中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだで政治的緊張が高まっていた。また、1924年に成立したジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)もまた、両国民の対立を高めつつあった。そんななか、1927年(昭和2年)3月、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が提唱して親善活動がおこなわれた。その一環として、米国から日本郵船の天洋丸で日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が贈られた。仲介者は渋沢栄一であった。「青い目の人形」は全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎された。返礼として、渋沢栄一を中心に「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が同年11月に日本からアメリカ合衆国に贈られた。           日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は反米・反英政策により敵性人形としてその多くが焼却処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を隠し、戦後に学校等で発見された。現存する人形は2010年現在、323体[1]にすぎないが、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されている。)Wikipedia
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by moekire | 2013-07-20 22:15 | 新潟の昔のこと  

坂口安吾が入園した新潟市立西堀保育園(幼稚園)

坂口 安吾(さかぐち あんご)本名、炳五(へいご)。1906年(明治39年)~ 1955年(昭和30年)、明治44年(1911年)4月、5歳で西堀幼稚園に入園とありましたがどこの場所かよくわからなかったのですが、笹川餅やさんのお話でわかりました。やはり笹川餅屋さんの斜め向かいの鍛冶小路角にあった西堀幼稚園(西堀保育園)でした。
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昭和27年・市立西堀社会館保育園とある。また、下は戦前の昭和17年の正面玄関の写真で、右側の手前にL型に建物が続いている。(上の写真の建物の真中が入り隅)戦前は幼稚園、戦後、幼稚園と保育園がダブってあった。
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少し散財している安吾家でも、安吾はおぼっちゃまで、毎日お付きのもと一緒に通っていて、帰りには向かいの笹川団子屋さんでお菓子を買ってもらったという話です。建物は安吾当時のままで、保育園も幼稚園も入ると一緒で、預かり期間の長い短いで違ったということらしい、今の管轄の違いが当時からあったのかも知れない。
戦後の昭和27年の方が貧乏で卒業写真1枚だが、戦争前の昭和17年は卒業記念アルバムがもらえた。アメリカと戦う前は豊かだったのです。当時のアルバムの写真で子供たちの生活がうかがえます。
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ラジオ体操と人形劇
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お雛様、左の薪ストーブの上は持ってきたお弁当を温めている鍋のようなもの。戦前はお弁当でしたが、昭和27年はナント幼稚園ですでに給食がありました。アメリカの脱脂粉乳を無理やり飲まされました。
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五月人形と相撲
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お絵かき
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ビンゴのような紙を持っている、何でしょう?
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A白山公園の信濃川埋め立て地まで移動しての運動会。公会堂や県政記念館が見える。
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B砂遊び、綱引き、旧県庁(現・市役所)と物産館が移設され科学館となった建物が見える。
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昭和22年の新潟市地図で場所を描きました。
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by moekire | 2013-06-22 19:41 | 新潟の昔のこと  

大正から60年間書き続けた日記、新潟市坂井清衛個人日記

新潟県立・文書館の『文書館だより』第14号に私が子供のころに遊んでいた忠雄さんのお父さんの日記が載っていた。
『文書館だより』第14号 拡大PDF
表面d0178825_14563229.jpg裏面
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大正から60年間書き続けた日記、新潟市坂井清衛個人日記
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鳥居医院の右が坂井さんで戦後、私の子供のころにはヒエ、粟、など鳥の餌などと煮干し(ほしこ)なども木の箱に入ってたくさん販売していた記憶があります。楕円形のお風呂桶の風呂に入らせていただいた記憶もあります。先日新潟県立図書館の中の文書館へ行って閲覧してきました。お風呂の工事のことが書いてありました。とにかく膨大な量なので、時々閲覧しに行こうと思っております。(坂井、かさやと書いてある場所は駐車場になっており、先日、その件で忠雄さんのお兄さんが蔵織を訪ねてきました。その折にお父さんの日記の話を聞きました)
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一番左端が忠雄さんで、そのお父さんの日記です。
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戦後4~5年たった時の写真。昭和25年(1950年)ころ。
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by moekire | 2013-04-19 16:01 | 新潟の昔のこと  

2013年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。
にいがた文明開化ハイカラ館さんのブログ『新潟空港事始めー③ 戦後ー1』で新潟飛行場の昔の話が大変詳しく載っています。
戦後空港は進駐軍に接収され、米軍基地となりました。(昭和20年)その後の在日米軍の戦略計画の変更もあって、昭和33年3月に日本に返還され民間空港となりました。
戦後の定期航空路 昭和33年~全日空、新潟ー羽田間のパンフレットが載っています。飛行場のことは文明開化ハイカラさんにまかせて、、観光バスのイラストマップに白山公園内の『科学技術博物館』の絵が載っていました。旧新潟県庁とッ旧新潟県立図書館に挟まれてあります。
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1953年・昭和28年に旧新潟県立図書館が出来ていますので『科学技術博物館』(新潟県物産陳列館移築した建物)の全館が明治33年~ 移築後、昭和8年~昭和33年まではあったようです。
1958年・昭和33年ころの新潟市の住宅地図
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新潟県物産陳列館(現在の市役所)写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)
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新潟県物産陳列館が旧県庁建築(現市役所の場所)のため、白山神社横(現市役所分館のあたり)に移築された。その後上の写真の左側の部分が白山高校として使われていました。
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完成した旧県庁と解体移設された物産陳列館の記念はがき。(↓ 下の写真は拡大)
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同じ場所で、全国菓子組合の第9回全国菓子飴大品評会が開かれていた。
(・昭和8年5月・第9回全国菓子飴大品評会会場写真)
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正面庭の中央に円形の噴水池を白い柱で飾っている。下の写真に飾りを取った円形池とドーム型噴水塔が見える。
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南京陥落祝賀旗行列 昭和12年1937年 商工奨励館の2階窓から撮影されたようだ。

下の写真は昭和37年の写真。手前旧県立図書館の裏側に旧白山高校の屋根写っている。明治の新潟県物産陳列館の左棟屋根と同じ形だ。1964年の新潟地震以後、この場所に県庁第二分館(現市役所第二分館)ができる。
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「思い出ほろろん・新潟編」(著者:中俣正義、発行:新潟日報事業者)という写真集があった。その88ページに「新潟県物産陳列館」移築後の写真があった。
ページの解説では、『県庁分館(現市役所分館)、旧県立図書館から白山駅方面。(昭和37年7月)』とあり、旧県立図書館の真裏の黒い屋根の建物には書かれていない。新潟地震(昭和39年)の前である。
旧県庁分館(現市役所分館)の左、旧県立図書館の真裏に黒い屋根が見える。それが当時白山高校(定時制)の校舎として使われていた「新潟県物産陳列館」移築後の左ウイングの屋根である。本館(科学館)と右ウイングは旧県庁分館(現市役所分館)に変わっている。
左上に木造長屋の白新中学とグランドが見える。その左側に今、甲子園で活躍の新潟明訓高校があった。残念ながら写真画像からぎりぎり外れている。
正面の旧県立図書館は平成になって現在の鳥屋野潟脇へ移転した。写真中央真下に白山神社の神楽殿の優美な屋根棟が見える。
ボケて、思い出すのも困難になってきたが、写真はしっかりと当時の姿を残している。あらためて膨大な写真ネガを残してくださった中俣正義さんに感謝。

にいがた文明開化ハイカラ館さんのブログの 昭和39年の新潟地震の写真。国体中の正面奥の建物が旧県立図書館で左のビルは旧県庁分館。その手前下に旧白山高校の黒い屋根が残っていて写真に写っているかな?と探したけれども見当たらない。地震以後、図書館の煙突が傾いている。第19回国民体育大会(新潟国体6月6日~11日)が終わって、6月16日に新潟地震は起こった。
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同じく新潟地震で、上空は石油タンク爆発の黒煙。ヘリコプターが飛んでいるすごい写真だ。本人は旧県庁分館の屋上にもぐりこんで、撮影したようだ。高校生があちこち動き回って撮影し、貴重な写真を残してくれました。写真正面の白い4階建ての建物が新築の白山高校。左の建物は公会堂の後方の煙突、手前の建物は旧県立図書館の屋上と傾いた煙突。真中の広いところは旧新潟野球場(現県民会館と一部りゅーとぴあ)で、手前のグランドから飛び立ったヘリコプターをとらえている。
結局白山高校の移転で明治の『新潟物産陳列館』の建物は消えてしまうことになっていたらしい。
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新潟市白山公園の裏、(新潟市役所分館のあたり)に商工奨励館があった

1901年明治34年新潟県物産陳列館開館の松の木

新潟県物産陳列館正面写真、明治34年


『新潟空港事始めー③ 戦後ー2 在日米軍ネタ』
『新潟空港事始めー④ 戦後ー2 在日米軍ネタ―Ⅱ』
『新潟空港事始め―② 市営新潟飛行場』『』
『オイラが昔、非行少年?・・あいや、飛行少年!だった頃・・・・新潟空港事始め ①』
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by moekire | 2013-01-02 03:25 | 新潟の昔のこと  

まちかど歴史探訪に栃尾の貴渡神社が載っていました

新潟日報(2012-12-26朝刊)に長岡市栃尾の貴渡神社が載っていました。
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貴渡神社は、栃尾地区の巣守神社境内の一角に鎮座している。ここは、地場産業を興すために養蚕を奨励し縞紬を広めた栃堀の庄屋・植村角左衛門貴渡を、栃尾織物の祖として奉るために建てられた神社。社殿は小さいものの、全体が雲蝶の彫刻で埋め尽くされている。その中でも見ごたえがあるのが、当時の養蚕の様子を奥行きのある構図で描いた作品。桑摘みや蚕の世話をする様子、繭を煮たり機織りに励む女性などが、中国風の意匠で表現されており、当時の人々の暮らしぶりや、この地の活気が生き生きと伝わってくる。ほかにも、神社を守る竜や十二支などの彫刻もあり、雲蝶の豊かな作風と表現力を感じることができる。(栃尾観光協会)
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貴渡神社から車で5分のところに『静御前』の墓がある。NHKの大河ドラマ『義経』で紹介されてから、まわりが騒ぎ始めてきらきらな看板などを建て始めた。だれも注目していなかったころに撮った写真です。(まわりに派手な看板などはない)
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すぐ近くに『静御前の墓』を守ってきた曹洞宗・高徳寺がある。2度の火災に合い文献はない。建物も普通の住宅であるが、石畳は古い。中の部屋に御本尊は安置してある。
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(新潟日報『晴雨計』2004/4/01)
大正生まれの母は一度も社会で働くという経験をせずに一生を終えた。母の現実離れした希望や、たとえのずれた小言は父や成長した子供たちからも世間知らずだと言い返されていた。

新潟市の大和デパート隣で染物屋を興した祖父は現役中に脳梗塞で亡くなった。祖母と尋常小学校の母が残され、女二人の家族は祖母の実家のある栃尾に一時身を寄せた。
  醸造業を営み、にぎわっていた実家で趣味の三味線などを習い女学校にも通わせてもらった。大雪と伝統文化のあふれる栃尾で思春期を過ごした。十八歳で教師になりたての父と結婚し、祖母の死後、新潟に戻り終戦を迎えた。貧しくも男四人の子を抱え戦後の混乱期を越えてきた。

母は結婚式で始めて夫の顔を知ったと自嘲気味に言い、また思い出したようにうちの祖先は栃尾の神社に祭られているのだよといっていた。両方とも子供心にそんな事は無いだろうといつも生返事で聞いていた。

亡くなる数年前に病の母の代理として栃尾の法事に出席した。子供の時からの疑問を小声でたずねたら二つとも本当だった。帰りに栃掘にあるという貴渡神社を訪ねた。

栃尾織物を広めた祖神、縞紬の元祖である植村角左衛門貴渡翁の霊を祭ったと掲示されていた。小さな神社だったが繭生産から機織工程までを表した雲蝶作の伽藍彫りは四面きれいに残っていた。

  隣には母の祖先の庄屋植村家の大きな石組みが残り、河井継之助一行避難のおり、じゃまな什器をここに預けていったという話も聞いた。

  父親の影響を知らぬまま、夢のような短い思春期を過ごし、若くして激動の昭和に翻弄されてきた母は自らをかえりみる余裕もなく、世間知らずだと言われながら七十半ばで亡くなった。

今、貴渡神社を再訪し、このルーツこそ意識されることなく母を支えていた微かなプライドだったのだと分かった。

  それならば、もう少し真剣に母の気持ちを受け止めてやればよかったと、花冷えの空を見上げながら思った。
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by moekire | 2012-12-29 05:56 | 新潟の昔のこと  

ラジオ新潟(RNK)制作の針が中心から外側に動くレコードとは・・・、

蔵織でやっている。 第2回 『新潟古時計物語+蓄音器展』のフライヤーを見て、『針が中心から外側に動くレコードを蓄音器にかけて音を聞かせてください』という方からの電話がありました。
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電話の主は西区の鍋谷毅さんでした。昭和30年代始め、ヤマハのエレクトーン(当時約35万円)が新発売され、それを大和百貨店会場で20代の鍋谷さんが演奏したそうです。(当時の初任給が1万円以下)その後、ラジオ新潟(RNK)から依頼があり、ラジオ放送の1日の終わりの音楽(NHKの終了音楽・君が代のようなもの)としてスターダストを演奏したそうです。その演奏をレコードにしたものをラジオ新潟(RNK)の方からいただいたそうです。それ以来一度もかけて聞いたことがないということでした。また、不思議なことにレコード盤の中心から外周に向けて針が動くそうです。外側に針を置いたのですがうまくゆかず、中心の方に置いたら50年ほど前の鍋谷さん演奏のエレクトーンの音色が響き渡りました。鍋谷さんも始めて聞いたと大喜びでした。
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ラジオ新潟(RNK)がレコード盤を造り、毎晩放送終了時に流していたのでしょう。裏面はトワイライトタイムです。1963年5月14日に手渡した日付けがあります。新潟地震の前の年です。ちなみに、RNKはラジオ新潟協会だそうです。
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RNK・ラジオ新潟協会について、昭和30年の新潟大火の時には大和デパートの屋上にスタジオがあった。(にいがた文明開化ハイカラ館より)
大和の屋上左手を良く見ると壁にJODRの文字が見えます。当時民間放送のRNK(JODR-ラジオ新潟=現在のBSN)が昭和27年から大和新潟店屋上、映画館跡のフロアを借りて新潟放送の事務所・スタジオが設置されていました。
下は大火前の柾谷小路からの夜景、すずらん灯と大和屋上に丸にRNKとJODRのネオンサイン下、スタジオの明りがが見える。
新潟大火の時、猛火の迫りくる中、ラジオ新潟、丹羽アナウンサーが大火の実況放送を類焼直前まで続けたことは伝説になっている。新潟放送は大火後に川岸町に移転して現在に至る。
屋上に大和とRNK ,JODRのネオン(にいがた文明開化ハイカラ館・地震・雷・火事・親父

柾谷小路より大和ネオンを写している。工事中なのか歩道はまだ土で水たまりがある。
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焼け落ちた大和。右手の建物は郵便局。大和と重なってすずらん灯の白いガラス球が三つ見える。同じ街路樹も見える。
下の写真は西堀側から大和を写したもので堀の淵の飲み屋が焼け崩れて、瓦礫の坂になっている。その下に堀の石組が見え、左端には現在の三越裏手から観音様(黄金)方向への木の橋(欄干)が焼け残っている。現在のロイヤルホスト(1階コムデギャルソン)あたりからの撮影。
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(にいがた文明開化ハイカラ館・地震・雷・火事・親父)

JOQK新潟放送局
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by moekire | 2012-06-23 17:42 | 新潟の昔のこと  

高橋捨松翁が明治34年・新潟市で写した『勧商場』とは何ぞや・・・・・?

新潟県六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家『金城酒販・高橋一哉氏』の十代目にあたる高橋捨松翁が写した乾板写真の中に明治34年に新潟市を訪れた時の貴重な写真がある。その中の明るい日差しできれいに写っている新潟市古町6にあった『勧商場』の鮮明な姿があった。

勧商場』(勧工場)
明治・大正時代,一つの建物の中に各種商店が連合して商品を陳列し正札販売した一種のマーケット。1877年の第1回内国勧業博覧会の残品処理のため東京麹町(こうじまち)区辰ノ口(現在の千代田区丸ノ内)にできた物品陳列所(1878年:明治11年1月20日、東京永楽町辰ノ口に、府立第一勧工場開場)が最初で、のち各地に開設。(コトバンク)
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 ↑ 新潟市古町6番町963番地(現在の古町6ディーズビル:パチンコダイエー)
    の勧商場の写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)
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『新潟懐古資料88』創設当時のいろいろ (散華生稿)
出願者五人:明治17年2月6日、古町5の横田孫平、上大川前5の小山甚蔵、上大川前7の高橋治太郎、港町1の前田松太郎、下大川前5の藤野東太郎の五人が発起人となって出願し、許可された。趣意書に、ここに百貨を陳列し一々正確の定価を附し売買上の便宜を計るとともに当市物産の進行に努めたい、とあり、県も願意を容れてこれを許した。新潟市古町6番町963番地に建設し、同年4月10日に開業した。(早すぎる?)
当時、内部の構造は場内を区画して、70余室とし、各室の奥行きは4尺(1.2m)、幅は9尺(2.7m)と限定してあった。1室の貸付料は今から(大正15年)見ると恐ろしくやすいもので、一昼夜2銭5厘より少なからず、2銭5厘よりも多からずというのであった。開業の当夜などはその付近は見物の山を築き、頗(すこぶ)る盛んな景気なものであった。その後、本町13番町吉良萑熊ヶ小路から上4件目の東側にも弘商館というのができて、また、古町8にも広商館という一字違いのものもできてきた。(大正15年9月29日新潟新聞)

大正10年4月発行の会社通覧(農商務省編纂・国産時報社)によると、明治33年12月に合資会社勘商場(新潟市古町6番町・商店賃貸)として設立記録がある。明治17年2月6日に出願して、創立事務所を西堀前6番町11番地に置き、勘商上は古町6番町963番地に同年4月10日にオープンしている。のち、明治33年12月に合資会社勘商場として古町6に登記している。明治17年2月6日の出願前から建物の工事を始めていたのか、2ヶ月間の工事期間は短すぎる。また、捨松翁が写真を撮った明治34年はオープンから17年がたっている。きれいに写っているがよく観ると外壁の塗装はだいぶはげているし、2階バルコニーの床飾りも相当傷んでいるが、大屋根の4尺(1.2m)のひさしが外壁の傷みを防いでいる。建て替えなどはなく、写真はオープン当時のままの建築物であろう。
こういう些細なことが写真からわかるということは、いかに(金城酒販・高橋コレクション)の写真が鮮明に残っていて、貴重なものだということがわかります。百聞は一見にしかずです。

明治30年前後『勧商場』は全国で隆盛を極めたが、定価販売から安物販売にはしり衰退していった。代わりにソフトを重視した呉服店の再興:百貨店(デパート)の人気が高まりはじめた。



新潟県六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家の明治・大正のガラス乾板写真を訪ねて・・・


新潟県物産陳列館正面写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)


六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家の明治・大正の乾板写真と阿部家ルーツ・・・
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by moekire | 2012-01-08 00:52 | 新潟の昔のこと  

新潟県物産陳列館正面写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)

新潟県六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家『金城酒販・高橋一哉氏』の十代目にあたる高橋捨松翁が写した乾板写真。高橋捨松翁がカメラをかついで新潟市を訪れている。
その時の貴重な写真が数十枚残されている。その写真が今回の、 『柳都の華』ー新潟花街史を見るーで展示されます。(にいがた文明開化ハイカラ館に写真があります)
下、一府十一県連合共進会会場・物産陳列館正面写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)
その後、昭和7年、この場所に旧新潟県庁が建てられる時に、物産陳列館は現在の新潟市役所分館(陸上競技場横)の場所に移設され、本館は科学博物館となり、左側の建物は市立白山高校として使われました。昭和7年完成の新潟県庁は戦後を生き延びて、1989年(平成元年)現在の五代目新潟市庁舎を建てる時に解体され、新しい現在の市役所が完成します。2本の松の木はシンボルとして残っています。
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  ↑ 新潟県物産陳列館写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)
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完成した旧県庁と解体移設された物産陳列館の記念はがき。
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移設された物産陳列館のアップ。
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左側の建物が白山高校としてあった時の写真・昭和37年「思い出ほろろん・新潟編」(著者:中俣正義、発行:新潟日報事業者)その88ページ。(中央黒い屋根。)
松の木の位置?あるいは門柱の位置?
高橋捨松翁が写した明治34年の写真には大きな松の木が門の内側にあるのに、下の写真絵はがきには松の木が門の外にある。門柱のデザインも変わっている?
『にいがた文明開化ハイカラ館』さんによると、明治34年には写真絵葉書はほとんどないとのこと、それゆえ、高橋捨松翁が写した明治34年の写真は非常に貴重なものだそうです。
門柱の頭の電灯からみると、大正時代に門の位置が内部に下がって建て替えられたのではないか?というお話です。
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1901年明治34年新潟県物産陳列館開館の松の木

昭和37年・旧県立図書館の真裏に「新潟県物産陳列館」移築後の黒い屋根が見える
「思い出ほろろん・新潟編」(著者:中俣正義、発行:新潟日報事業者)
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by moekire | 2012-01-03 23:08 | 新潟の昔のこと  

新発田市大手町にある吉原写真館・・・・・

新発田市にある吉原写真館、昭和十年(1935)年の新発田大火の翌年、昭和11年に建て替えられたアールデコ調の3階建ての写真館です。後年二階の陸屋根は雨漏りのため瓦屋根に替わったそうです。中もステキな空間でした。
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吉原写真館は、1870年頃、外科医だった吉原秀齋が、新発田藩三条寺町にて写真を撮りはじめたところに遡ります。その後、北蒲原郡新発田町西ヶ輪(現在地)に移籍。屋号を「吉原写真館」としました。現在も、肖像写真、家族写真の専門店として続いております。(吉原写真館HP)
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熱く語っていただきました吉原さん
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洗面室の輸入ガス湯沸し機器が素晴らしい
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階段手すりも特注真鍮作りです。
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新発田市にある吉原写真館〒957-0052 新潟県新発田市大手町2-6-22
0254-22-2056
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by moekire | 2011-09-28 08:53 | 新潟の昔のこと  

鳥居医院の先生から『新潟の電話70年のあゆみ』をお借りしました

新潟市白山神社前の鳥居医院の先生から『新潟の電話70年のあゆみ』をお借りしました。題字は江川蒼竹
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新潟電話交換局第1回電話加入者名(明治34年3月168加入のうち判明の分)というページに色々載っていた。電話番号15番が鳥居貞鍗次郎
とあります。31番に本家の志賀五作(呉服・はり五)(現・東堀5あぽろんの位置)がありました。庄内屋しんさんと関係があった八木朋直は電話がきらいのようでした。(赤線は画像処理)
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本町6の志賀呉服店(播佐・はりさ)はそばの竹野。坂口仁一郎、鍋茶屋。
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竹山医院、斉藤喜十郎。東堀8・鳥国(料亭)は先回昔の西堀について聞きに来た新潟日報の山田記者の実家です。(戦時中防火のため強制解体させられたそうです。:現・鍋茶屋通の丸伊あたり)
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行形亭、香月堂。最後に、上大川前4、田代三吉(海産物卸)は時計展やお雛様めぐりでお世話になった田代さんのおたくです。


文明開化のハイカラもの=「電話」が新潟へやってきた
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by moekire | 2011-08-30 18:24 | 新潟の昔のこと