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「白山・西堀・古町にいがた今昔写真展」 11月4日(木)~11月23日(火)

11月4日(木)~11月23日(火)
「白山・西堀・古町にいがた今昔写真展」

第二回 『新潟市西堀界隈に桜を植える会』植樹会  をやります。

昨年の植樹会で植えた桜 
皆さんご参加ください。(苗木と会費1000円)西堀、古町など道路境界と民家の間のスペースに桜の苗木を植えます。あらかじめ家の人の了解をとっております。後の管理は家の人の自由とします。昨年は6ヶ所でした。今年も5~6ヶ所やりたいと思います。 
写真展の期間内の
11月14日(日)蔵織 集合。 PM1:00より
 1時間ほど、終了したら蔵織で珈琲会。


忘れてはいけない みなとまちの歴史』さんの西堀の写真は左が海側、右が古町側ですが何番町あたりかわかりません。
両側の枝が上に向かっている木は全て桜の木です。昭和38年ころに西堀も埋め立てられてしまいましたが、それまでは毎年春になると桜の花のトンネルが1番町から10番町まで続いました。
西堀の桜に関しては、昭和の始めころに、何か新潟市を花の咲く町にしたいと市役所の役員のかたが言い出し、市民も賛同して植えたらしい。20数年たっていれば直径が30~40cmになっていて、この写真の太さとだいたいあいます。
詳しいいきさつは 『にいがた文明開化ハイカラ館』 にいづれ載る予定だそうです。

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昭和30年代の悪がきのスナップ。(左が故田中忠夫さん)後ろに夏の葉が生茂った桜の木が沢山あります。ちなみに医学町からピンチャン小路に渡れるように橋があり、入沢旅館さんの布団が干してあります。右手の小屋は公衆便所で汲取り式なので臭気抜きの煙突が立っています。のどかな夏の日です。

    西堀で桜の写生をする子供たち(新潟日報事業社)
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左すみの垂直の丸太は電柱。堀に向かって、両岸から黒い幹の桜の木がのびている。遠くは裁判所の松ノ木。左に積まれた玉石は西堀の水路で運ばれ、岸辺に勝手に置かれていてる。注文が入るとまた船に乗せて運ばれる。砂や砂利の山が岸辺にあった。
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      はがきのタイトルは『情緒の新潟、櫻花の西堀風景』
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左端の塔は警察署(旧小林デパート、現三越)、西堀の街路樹は枝が上に向かって分かれているのが桜の木で、くの字に曲がっている木が柳です。
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 一番堀から見た裁判所正面、桜を植えて数年、まだ細い、下の写真は桜の木が大きくなって葉が茂っている。人力車夫が木陰で休んでいる。 水は右の橋の下を通って西堀に流れている。
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上の写真の左上の葉は桜の木。下の写真は同じ桜の木が咲いている
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by moekire | 2010-10-18 00:04  

今年5月に蔵織で開催した 「 湊新潟・江戸からくり夢工房 」 展 のフライヤーが載っていました。

「にいがた文明開化ハイカラ館」に、
新潟は「からくりの北限」? と題して、今年5月に蔵織で開催した 「 湊新潟・江戸からくり夢工房 」 展 のフライヤーが載っていました。 そのブログの中で
日根之和さんが復元制作した「鐘つき人形」の写真とからくりの仕掛けが載っています。今までの吊鐘を鉛の含流量が多い江戸ガラスに取り替え、今回、ようやく出来上がってきたようです。(早く音色を聞きたいものです)
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蔵織でもお世話になった、日根さんは新潟県立自然科学館の副館長を退職したのち、自費で市内白根大郷に「越後大郷からくり館 」を設立しました。からくり古書を忠実に復元した「からくり人形」や新しい工夫を取り入れた「創作からくり」にも果敢に取り組んでおり、数々の賞を受けています。越後、日本を代表する貴重な「からくり師」です。

 「 湊新潟・江戸からくり夢工房 」 展  
 江戸からくり人形こそは日本のハイテクロボットの原点!
と題して蔵織で開催しました。(2010年5月6日(木)~5月25日(火) )
当時、これなかった皆様に写真を載せます。
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手前の人形が有名な「茶運び人形」バネやゼンマイを鯨のひげで復元したものと、金属ゼンマイで復元したものがあります。
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奥の人形は金属ゼンマイ で、(江戸後期には金属ぜんまいがあった。)手前の人形が鯨のひげのゼンマイ でできています。鯨のひげの方はカビやねずみにやられますし、動力としての力が弱いため、人形の骨格や木製歯車の重さをできるだけそぎ落としています。(現代の自動車のボディーと同じですね)
日根さんは、この複雑な仕組みを古書「機巧図彙」に書き残された、筆で描かれた簡単なイラストを頼りに復元しています。古書には寸法もパーツも連動メカニックの詳細もありません。
いかに、日根さんの根気とアイデアが驚異的かわかります。おまけに、顔や着物まですべて日根さんの手作りです。人形の顔はやはり奥さんに似ています。
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日本最古の機械工学書といわれている 「機巧図彙」(からくりずい、きこうずい) 江戸時代のからくり人形技術を 土佐藩の細川半蔵頼直が機械工学書として、後世に残したもの。
寛政8年(1798)  首・上・下の全三巻が江戸で出版、大阪や京都でも再版。
著者は、土佐藩の細川半蔵頼直。
エレキテルで有名な平賀源内も愛用し、明治以降の日本の科学技術、ものづくりに大いに貢献した書物です。
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ガラスケースの中の古書「機巧図彙」の横には江戸時代の本物のからくり人形 と「蟹の盃台」があります。
さりげなく置いてある、この「蟹の盃台」は日本製の「蟹の盃台」では日本最古、実際に稼動するものは唯一なものであろうといわれています。(蟹が盃を載せてお客の前に歩いて行き、お客が盃を持ち上げると止まり、飲んだあとの盃を蟹の上に置くとまた歩き出します。ユーターンはせずに一方向に動きます。)
そんな貴重なものを実演会の時に動かしてくれました。おまけによく観察できるようにお客様の手元にまわしてくれました。(コレクターは太っ腹です。)
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24時間で地球儀が一回転します。ケース内は紙日時計や懐中日時計、万歩計は歩いて距離を測るものです。またジャイロや方向磁石。これらと同等のもので伊能忠敬の日本地図は製作された。
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闘鶏(とうけい) 左のほうは、最後に岩陰から犬が飛び出してきてみんなびっくり!というからくりで、最高に面白いものです。
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段返り ( だんがえり ) 人形、中に水銀が入っていて、それがゆっくりと体内で移動することによって、人形は一人でバクテンしながら降りてゆきます。
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からくり儀右衛門作の弓射り童子の復元。実際に1本1本の弓矢を手に持って、弓を引き離れた的に当てる。優れもの。
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越後大郷からくり館 

「にいがた文明開化ハイカラ館」 
北前船のおくりものー① からくり人形  
新潟は「からくりの北限」?  
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by moekire | 2010-10-15 11:02  

新潟大火。西堀の三越裏の『光林寺』は無事だった!?

 『午前2時50分頃に出火した新潟大火は午前10時50分にやっと鎮圧、残火も含めて完全鎮火したのは午後7時のことだった。』
Wikipediaの写真をよく見てみると、すでに明るくなっている。右から燃えてきて、ほとんど鎮圧状態。消火後の白い煙に覆われている。
遠くのビルは小林デパート(現三越)で、『にいがた文明開化ハイカラ館』写真の小林デパートのナショナルのネオンを裏側から見ています。
その手前に、小さな窓が二つあるお寺の屋根が『光林寺』で、類焼を免れて写っています。(私の家は光林寺の檀家です)
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 ビル近くをズームイン。ナショナルのネオンと光林寺の二つの窓が見える。手前のロの字の形をした屋根は当時の新潟大学教育学部とそのグランド。
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裏側から撮影したため、『にいがた文明開化ハイカラ館』のショナルのネオンと小林のマークが左右逆になっている。
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1937(昭和12)年開店した当時の小林デパート。まだナショナルのネオンはない。
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ネクスト21ビルを後ろに、現在の光林寺裏側の二つの窓。大火の写真にしっかり確認できる。
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光林寺は明治の度重なる大火に焼けて、大正十四年(1925)に鉄筋コンクリートの本堂が完成した。昭和の大火には焼けずに残った。類焼ラインぎりぎりセーフであったが、不燃のコンクリートは火の粉をさえぎり本堂を守った。
大火後,光林寺の墓は強制的に区画整理され肩身の狭い並びとなっり、墓地を貫通するように防火道路ができた。(現在の自家焙煎珈琲『器』 さんの通)
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地図はクリックで拡大します。 
 Wikipediaの写真は
JOQK新潟放送局』の航空写真のアンテナの右端の松ノ木(旭町)付近から、教育学部グランド右のロの字の校舎屋根を通してはるか万代橋方面に向けて撮影されたものです。(放送局の送局、配水所の文字半分が地図上の撮影場所マークの上にあります。新潟市で一番高い土地で、現日本海タワー付近)


昭和初期絵葉書「空から見た新潟市(二)放送局を中心として」  ↓
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by moekire | 2010-10-07 03:07  

新潟大火(1955年・昭和30年の10月1日)秋の遠足で秋葉山へいった次の日の早朝が新潟大火の日でした

55年前(1955年・昭和30年)の10月1日に新潟大火があった。と『にいがた文明開化ハイカラ館』のブログにあります。ブログの主(Sさん)の自宅も出火近くであったため何も持ち出すことができずに全焼したということです。
昭和28年の新潟市地図で新潟大火範囲を示しました。
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(写真Wikipedia)

日本海側を通る台風のフェーン現象と強風の影響で未曾有の大火になりました。
1時間出火が遅ければ風向きが変わって『蔵織』も炎の海の中でした。
現在の市役所向かいのマンション(ダイアパレス医学町)裏手から出火し、東仲通を燃えつくし、現新潟JA(旧新潟日報本社)、西堀方面のお寺を焼き現三越(当時小林デパート)、大和デパート、郵便局など柾谷小路の両端を焼き尽くして他門川で止まりましたが、さらに礎町に飛び火して信濃川で止まりました。当時はまだ堀が残っておりましたが、西堀、東掘の水路は乗り越えて延焼してしまいました。しかし川幅が両水路より広い他門側で止まりました。
私は、白山小学校3年生。秋の遠足で秋葉山へいった次の日の朝早くにたたき起こされました。二階の窓の正面が真っ赤になって、煙と炎は右方向に流れていました。同級生の、号外にある読売新潟支社の川田君(東仲通の旧楓画廊さんの場所)とSさんの隣の隣の高橋君の家が焼けてしまいました。

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秋葉山遠足の写真、秋葉山といっても標高96mです。(ナンダカナー)
秋葉神社といえば火伏せの神様だ。(ナンダカナー)
読売新潟支社の川田君はその年にやってきた転校生。 それに今は亡き高橋君が写っています。先生は佐藤先生で55人ほどの楽しいクラスでした。特筆すべきは、8人のお母様方が小さい兄弟を抱えて参加し、フォローしていたということがわかります。貧乏でしたが、当時は『いじめ』という問題など皆無でした。それは子供が知らないところで、いろいろな父兄の方がクラスのことを気遣っていて、そういう大人たちの存在が子供たちに安心感を与えていたのでしょう。

さて、『午前2時50分頃に出火した新潟大火は午前10時50分にやっと鎮圧、残火も含めて完全鎮火したのは午後7時のことだった。』とある。
小学3年生どもは大人が騒いでいるのを尻目に、家を抜け出して火元まで野次馬見物に出かけた。東掘6番町あたりの木造2階建ての民家が大きく炎とともに崩れ落ちるのを見て興奮していた。
よく、火の粉の中を小学生数人で飛び歩いていたものだ。大人は注意するほど暇ではなかったし、子供たちの安全は子供たちの自己責任だった。
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by moekire | 2010-10-02 02:02