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新発田市大手町にある吉原写真館・・・・・

新発田市にある吉原写真館、昭和十年(1935)年の新発田大火の翌年、昭和11年に建て替えられたアールデコ調の3階建ての写真館です。後年二階の陸屋根は雨漏りのため瓦屋根に替わったそうです。中もステキな空間でした。
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吉原写真館は、1870年頃、外科医だった吉原秀齋が、新発田藩三条寺町にて写真を撮りはじめたところに遡ります。その後、北蒲原郡新発田町西ヶ輪(現在地)に移籍。屋号を「吉原写真館」としました。現在も、肖像写真、家族写真の専門店として続いております。(吉原写真館HP)
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熱く語っていただきました吉原さん
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洗面室の輸入ガス湯沸し機器が素晴らしい
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階段手すりも特注真鍮作りです。
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新発田市にある吉原写真館〒957-0052 新潟県新発田市大手町2-6-22
0254-22-2056
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by moekire | 2011-09-28 08:53 | 新潟の昔のこと  

日本歯科大学新潟生命歯学部・医の博物館はすばらしい・・・

日本歯科大学新潟生命歯学部・医の博物館へSSさんと行ってきました。想像以上に面白く、貴重な展示ですばらしいものでした。
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いきなり『飲食養生鑑(かがみ)と房事養生鑑 江戸後期 歌川国貞画』が飾ってあり、別世界へ
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飲食養生鑑・房事養生鑑について(くすりの博物館より)
庶民の娯楽の錦絵は様々な題材のものがありましたが、人の体内図を描いたものは珍しく、人々に大変評判でよく売れました。飲食養生鑑は「悪い病気は飲食の不養生でおこる」ことを述べ、飲みすぎ食べすぎを戒めています。房事養生鑑では体内を遊郭の世界にたとえて、女性特有の体内を描いています。当時の人々にとってインパクトがあったことでしょう。
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2009年正月に蔵織で展示したものの『月岡芳年 風俗三十二相』の「めがさめさう」
があった。江戸のギャルが歯磨きをしている。
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抜歯器具 歯鍵(しけん)
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日本歯科大学新潟生命歯学部・医の博物館

日本歯科大学
日本歯科大学は、中原市五郎によって、明治40年(1907)6月、公立私立歯科医学校指定規則に基づくわが国最初の歯科医学校として東京都千代田区に創立されました。ここ東京都千代田区(元、東京都麹町区)は、わが国歯科界の発祥の地となりました。当時、歯科医療は黎明期にあり、「学・技両全にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的としました。そして歯・顎・口腔の医学を教導し、学・術・道を兼ね備えた歯科医師を輩出し、歯科医学の進展、歯科医療の向上、患者国民の福祉に尽力しました。
私学として創立者の「自主独立」という建学の精神を継承し、平成23年(2011)に創立105周年を迎えました。この105年におよぶ歴史と伝統は、本学がわが国の“歯科界の源流”といわれる由縁であります。
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by moekire | 2011-09-09 16:01  

バイスクルジジイと大河津分水と池田謙斎と良寛・中村家、原田家、五合庵、乙子神社①

バイスクルジジイ SさんとTさんが大河津分水・新可動堰を見学していたので、途中から合流。
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        ↑ 寺泊方面 新可動堰   ↓ 新潟方面 可動堰
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バイスクルジジイ SさんとTさん
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旧大河津分水可動堰は公園として残されている。その先の赤い橋を渡って中之島方面へ車で5分ほど行くと『入澤一族と池田謙斎 生家跡』(長岡市中之島西野300番地1) がある。
(日本の医学界に大きな功績を残した中之島西野の入澤一族の生家跡を、入澤家の人々の生涯を顕彰する記念庭園。池田謙斎(1841~1918)は、西洋医学を修め明治新政府に登用され、陸軍医監を経て東京帝大医学部総理となられました。明治19年に明治天皇の侍医となり、同21年、日本で最初の医学博士号を授与されました。おいの入澤達吉(1865~1939)は、東京帝大の医学部長、日本内科学会会頭などを歴任し、大正天皇の侍医頭となって天皇崩御まで献身的に尽力されました。 長岡市観光
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池 田 謙 斎
『・・・ 文久三年六月十日、緒方洪庵は突然喀血し卒然とこの世を去った。享年五十三歳。失意の入澤圭助(池田謙斎)は一旦江戸を去り故郷西野(長岡市中之島西野)に帰る。兄入澤恭平も長崎から越後に帰り、蒲原郡今町で開業中であり、圭助はその手伝いをしばらくさせられていたが、兄恭平に無断で再び江戸へ旅立った。医学所の新頭取には、恭平が長崎で師事していた松本良順が就任していた。良順は洪庵とは人柄が違い学生達には不人気であった。池田多仲あらため玄仲が中に入り和解に努めたが、学生達は良順の授業をボイコットした。
学生達は語学力の不足を長崎から帰ってきたばかりの緒方洪庵の子、惟準の新設した塾で補った。この時、緒方惟準は二十歳だった。
圭助(池田謙斎)は兵書の研究が目的で蘭学を始めたが、ヨーロッパの学問を勉強すればするほど攘夷など思いもよらぬことを悟った。ここに至り、入沢圭助は西洋医学の力で、病からこの国の人々を救える人間になろうと決心した。ときに元冶元年(1864)三月。圭助(池田謙斎)が江戸に出てから六年を経過していた。・・・・   ・・・・・
ある日、圭助(池田謙斎)は緒方洪庵の未亡人に呼び出されて、池田玄仲の養子になることを勧められた。熟慮の末にこれを受けた圭助(池田謙斎)は、一旦、緒方家に養子となる形式をとった上で、池田玄仲の養子となり名を池田謙斎と改めた。・・・・・』(「東京帝大医学部総理 池田謙斎伝」長谷川つとむ著 新人物往来社)
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残念ながら、蔵の記念館資料を見る時間がなかった。(近くの家の人が鍵を持っている)
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つづく


長岡市観光 入澤一族と池田謙斎 生家跡


バイスクルジジイと大河津分水と良寛・中村家、原田家、五合庵、乙子神社②


弥栄の杜から「東京帝大医学部総理 池田謙斎伝」長谷川つとむ著

【長谷川泰先生と新組地区】


大河津・新可動堰


良寛・貞心尼・由之 関連年譜(梅津昇さんの年譜が一番わかりやすい)


梅津昇編著『良寛・貞心尼の仮名を読む』
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by moekire | 2011-09-05 05:04