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高橋捨松翁が明治34年・新潟市で写した『勧商場』とは何ぞや・・・・・?

新潟県六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家『金城酒販・高橋一哉氏』の十代目にあたる高橋捨松翁が写した乾板写真の中に明治34年に新潟市を訪れた時の貴重な写真がある。その中の明るい日差しできれいに写っている新潟市古町6にあった『勧商場』の鮮明な姿があった。

勧商場』(勧工場)
明治・大正時代,一つの建物の中に各種商店が連合して商品を陳列し正札販売した一種のマーケット。1877年の第1回内国勧業博覧会の残品処理のため東京麹町(こうじまち)区辰ノ口(現在の千代田区丸ノ内)にできた物品陳列所(1878年:明治11年1月20日、東京永楽町辰ノ口に、府立第一勧工場開場)が最初で、のち各地に開設。(コトバンク)
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 ↑ 新潟市古町6番町963番地(現在の古町6ディーズビル:パチンコダイエー)
    の勧商場の写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)
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『新潟懐古資料88』創設当時のいろいろ (散華生稿)
出願者五人:明治17年2月6日、古町5の横田孫平、上大川前5の小山甚蔵、上大川前7の高橋治太郎、港町1の前田松太郎、下大川前5の藤野東太郎の五人が発起人となって出願し、許可された。趣意書に、ここに百貨を陳列し一々正確の定価を附し売買上の便宜を計るとともに当市物産の進行に努めたい、とあり、県も願意を容れてこれを許した。新潟市古町6番町963番地に建設し、同年4月10日に開業した。(早すぎる?)
当時、内部の構造は場内を区画して、70余室とし、各室の奥行きは4尺(1.2m)、幅は9尺(2.7m)と限定してあった。1室の貸付料は今から(大正15年)見ると恐ろしくやすいもので、一昼夜2銭5厘より少なからず、2銭5厘よりも多からずというのであった。開業の当夜などはその付近は見物の山を築き、頗(すこぶ)る盛んな景気なものであった。その後、本町13番町吉良萑熊ヶ小路から上4件目の東側にも弘商館というのができて、また、古町8にも広商館という一字違いのものもできてきた。(大正15年9月29日新潟新聞)

大正10年4月発行の会社通覧(農商務省編纂・国産時報社)によると、明治33年12月に合資会社勘商場(新潟市古町6番町・商店賃貸)として設立記録がある。明治17年2月6日に出願して、創立事務所を西堀前6番町11番地に置き、勘商上は古町6番町963番地に同年4月10日にオープンしている。のち、明治33年12月に合資会社勘商場として古町6に登記している。明治17年2月6日の出願前から建物の工事を始めていたのか、2ヶ月間の工事期間は短すぎる。また、捨松翁が写真を撮った明治34年はオープンから17年がたっている。きれいに写っているがよく観ると外壁の塗装はだいぶはげているし、2階バルコニーの床飾りも相当傷んでいるが、大屋根の4尺(1.2m)のひさしが外壁の傷みを防いでいる。建て替えなどはなく、写真はオープン当時のままの建築物であろう。
こういう些細なことが写真からわかるということは、いかに(金城酒販・高橋コレクション)の写真が鮮明に残っていて、貴重なものだということがわかります。百聞は一見にしかずです。

明治30年前後『勧商場』は全国で隆盛を極めたが、定価販売から安物販売にはしり衰退していった。代わりにソフトを重視した呉服店の再興:百貨店(デパート)の人気が高まりはじめた。



新潟県六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家の明治・大正のガラス乾板写真を訪ねて・・・


新潟県物産陳列館正面写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)


六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家の明治・大正の乾板写真と阿部家ルーツ・・・
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by moekire | 2012-01-08 00:52 | 新潟の昔のこと  

新潟県物産陳列館正面写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)

新潟県六日町(南魚沼市)の旧家・高橋家『金城酒販・高橋一哉氏』の十代目にあたる高橋捨松翁が写した乾板写真。高橋捨松翁がカメラをかついで新潟市を訪れている。
その時の貴重な写真が数十枚残されている。その写真が今回の、 『柳都の華』ー新潟花街史を見るーで展示されます。(にいがた文明開化ハイカラ館に写真があります)
下、一府十一県連合共進会会場・物産陳列館正面写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)
その後、昭和7年、この場所に旧新潟県庁が建てられる時に、物産陳列館は現在の新潟市役所分館(陸上競技場横)の場所に移設され、本館は科学博物館となり、左側の建物は市立白山高校として使われました。昭和7年完成の新潟県庁は戦後を生き延びて、1989年(平成元年)現在の五代目新潟市庁舎を建てる時に解体され、新しい現在の市役所が完成します。2本の松の木はシンボルとして残っています。
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  ↑ 新潟県物産陳列館写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)
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完成した旧県庁と解体移設された物産陳列館の記念はがき。
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移設された物産陳列館のアップ。
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左側の建物が白山高校としてあった時の写真・昭和37年「思い出ほろろん・新潟編」(著者:中俣正義、発行:新潟日報事業者)その88ページ。(中央黒い屋根。)
松の木の位置?あるいは門柱の位置?
高橋捨松翁が写した明治34年の写真には大きな松の木が門の内側にあるのに、下の写真絵はがきには松の木が門の外にある。門柱のデザインも変わっている?
『にいがた文明開化ハイカラ館』さんによると、明治34年には写真絵葉書はほとんどないとのこと、それゆえ、高橋捨松翁が写した明治34年の写真は非常に貴重なものだそうです。
門柱の頭の電灯からみると、大正時代に門の位置が内部に下がって建て替えられたのではないか?というお話です。
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1901年明治34年新潟県物産陳列館開館の松の木

昭和37年・旧県立図書館の真裏に「新潟県物産陳列館」移築後の黒い屋根が見える
「思い出ほろろん・新潟編」(著者:中俣正義、発行:新潟日報事業者)
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by moekire | 2012-01-03 23:08 | 新潟の昔のこと