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まちかど歴史探訪に栃尾の貴渡神社が載っていました

新潟日報(2012-12-26朝刊)に長岡市栃尾の貴渡神社が載っていました。
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貴渡神社は、栃尾地区の巣守神社境内の一角に鎮座している。ここは、地場産業を興すために養蚕を奨励し縞紬を広めた栃堀の庄屋・植村角左衛門貴渡を、栃尾織物の祖として奉るために建てられた神社。社殿は小さいものの、全体が雲蝶の彫刻で埋め尽くされている。その中でも見ごたえがあるのが、当時の養蚕の様子を奥行きのある構図で描いた作品。桑摘みや蚕の世話をする様子、繭を煮たり機織りに励む女性などが、中国風の意匠で表現されており、当時の人々の暮らしぶりや、この地の活気が生き生きと伝わってくる。ほかにも、神社を守る竜や十二支などの彫刻もあり、雲蝶の豊かな作風と表現力を感じることができる。(栃尾観光協会)
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貴渡神社から車で5分のところに『静御前』の墓がある。NHKの大河ドラマ『義経』で紹介されてから、まわりが騒ぎ始めてきらきらな看板などを建て始めた。だれも注目していなかったころに撮った写真です。(まわりに派手な看板などはない)
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すぐ近くに『静御前の墓』を守ってきた曹洞宗・高徳寺がある。2度の火災に合い文献はない。建物も普通の住宅であるが、石畳は古い。中の部屋に御本尊は安置してある。
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(新潟日報『晴雨計』2004/4/01)
大正生まれの母は一度も社会で働くという経験をせずに一生を終えた。母の現実離れした希望や、たとえのずれた小言は父や成長した子供たちからも世間知らずだと言い返されていた。

新潟市の大和デパート隣で染物屋を興した祖父は現役中に脳梗塞で亡くなった。祖母と尋常小学校の母が残され、女二人の家族は祖母の実家のある栃尾に一時身を寄せた。
  醸造業を営み、にぎわっていた実家で趣味の三味線などを習い女学校にも通わせてもらった。大雪と伝統文化のあふれる栃尾で思春期を過ごした。十八歳で教師になりたての父と結婚し、祖母の死後、新潟に戻り終戦を迎えた。貧しくも男四人の子を抱え戦後の混乱期を越えてきた。

母は結婚式で始めて夫の顔を知ったと自嘲気味に言い、また思い出したようにうちの祖先は栃尾の神社に祭られているのだよといっていた。両方とも子供心にそんな事は無いだろうといつも生返事で聞いていた。

亡くなる数年前に病の母の代理として栃尾の法事に出席した。子供の時からの疑問を小声でたずねたら二つとも本当だった。帰りに栃掘にあるという貴渡神社を訪ねた。

栃尾織物を広めた祖神、縞紬の元祖である植村角左衛門貴渡翁の霊を祭ったと掲示されていた。小さな神社だったが繭生産から機織工程までを表した雲蝶作の伽藍彫りは四面きれいに残っていた。

  隣には母の祖先の庄屋植村家の大きな石組みが残り、河井継之助一行避難のおり、じゃまな什器をここに預けていったという話も聞いた。

  父親の影響を知らぬまま、夢のような短い思春期を過ごし、若くして激動の昭和に翻弄されてきた母は自らをかえりみる余裕もなく、世間知らずだと言われながら七十半ばで亡くなった。

今、貴渡神社を再訪し、このルーツこそ意識されることなく母を支えていた微かなプライドだったのだと分かった。

  それならば、もう少し真剣に母の気持ちを受け止めてやればよかったと、花冷えの空を見上げながら思った。
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by moekire | 2012-12-29 05:56 | 新潟の昔のこと  

公益財団法人『にいがた文化の記憶館』がメディアシップ内に開設。藤蔭静枝(静樹)の写真が・・・

新潟県出身者の文化人が残した業績を後世に伝える拠点施設
『にいがた文化の記憶館』が公益財団法人となり2013年2月オープンの新潟日報新社屋『メディアシップ』(新潟市中央区万代3)内に開設されるそうだ。同館長の神林恒道(現・会津八一記念館館長)氏が寄付を募っている。
なぜか、庄内屋しんさんの妹芸妓・藤蔭静樹(内田八重・藤蔭静枝)の写真が掲載されている。
蔵織の『新潟花街史を語る』(11回シリーズ)でも藤村誠先生に詳しくお話していただき、また、10月の蔵織・夜話で長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長さんに『藤陰静枝の舞踊』という題で講演していただきました。
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日本人で初めて日本舞踊をパリで公演した人で、新潟の妓楼・庄内屋シンさんの妹芸妓(庄内屋八重・内田八重)である。新潟から東京新橋芸者になったころは、シンさんが援助していた。のちに永井荷風と結婚するが、荷風の浮気で、半年で静枝のほうから三行半の文を残してわかれる。新潟時代から和歌を詠んでいるほどの文学芸妓で、東京の新橋あたりをうろついている文化人たちに臆することなく対等に付き合っていた。踊りは新潟の当時の2大家本元(市川流、市山流)の市川流の市川登根によって厳しく鍛え上げられた。のちに、幼少のころより稽古で市山登根に何度もたたかれていたが、その厳しさに感謝していると語っている。終戦前後、新潟・柏崎に避難。戦後1964年(昭和39年)文化功労者となる。
(昭和58年(1983年) 市川流藤間小藤が逝去、新潟の市川流が途絶える。現在新潟では市山流が柳都さんを指導している。)
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内田八重
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市川登根
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左・藤蔭静枝、右・晩年の庄内屋シン
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庄内屋シン

郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について書いています

初代萬代橋の親柱の橋名「萬代橋」を庄内屋シンさんを通して柳原前光に書いてもらいました。
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by moekire | 2012-12-15 01:07 | 新潟市のこと