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8月10日に三代目藤蔭静樹さんが蔵織を訪ねてきてくれました。

会津八一祭』(りゅーとぴあ能楽堂8月9日)に招聘され、第二部の「舞踊と音楽」で、三代目藤蔭静樹さんが踊りました。翌日、初代藤蔭静枝と関係の深い蔵織をたずねてきてくれました。
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明治13年生まれの初代・藤蔭静樹さんは
日本人で初めて日本舞踊をパリで公演した人で、子供のころから新潟の妓楼・庄内屋(約300坪)に出入りし、蔵織に晩年住んだ庄内屋シン(佐藤シン)さん の妹芸妓(庄内屋八重・内田八重)となりました。当時、芸妓となるにはおかみ(佐藤さと)の養子となることが当たり前で、年上のシンは義理の姉芸妓となります。
初代・藤蔭静樹さんは、5歳から三味線と踊りを仕込まれ、9歳で新潟随一の市川登根に師事。12歳で庄内屋の人気芸妓になり、19歳で上京します。
明治27年に柳原前光が亡くなり、新潟に帰っていたシンは明治29年、庄内屋のおかみ・佐藤さとが亡くなっていた時には庄内屋を継いで代表となっています。その時、庄内屋八重(初代・藤蔭静樹)は16才。
19才(明治32年)で東京へ出てから、庄内屋シンさんがしおくりをしていました。d0178825_1342502.jpgd0178825_13431690.jpg
のちに永井荷風と結婚するが、荷風の浮気で、半年で静枝のほうから三行半の『文』を残してわかれます。新潟時代から和歌を詠んでいるほどの文学芸妓で、東京の新橋あたりをうろついている文化人たちに臆することなく対等に付き合っていました。踊りは新潟の当時の2大家本元(市川流、市山流)の市川流の市川登根によって厳しく鍛え上げられました。のちに、幼少のころより稽古で市山登根に何度もたたかれていたが、その厳しさに感謝していると語っています。終戦前後、新潟・柏崎に避難。戦後1964年(昭和39年)文化功労者となります。


蔵織によくいらっしゃる郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について詳しく書いています 
荷風と静枝の間に赤ちゃんができていて、その子供が、三代目藤蔭静樹さんのお父さんであるといっています。
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私も、今日始めて三代目藤蔭静樹さんとお会いして、
背の高いこと、あごのラインなどが荷風の写真とそっくりなので、まちがいないと直感しました。
五人のお孫さんと一緒でにぎやかでした。d0178825_13491422.jpgd0178825_13494958.jpg
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NHK『八重の桜』で有名な同志社女子大学卒業しています。(本名・佐土 市子さん)



初代・藤蔭静樹年表
明治13年 新潟市古町の寿司屋の次女として生まれる。本名は内田ヤイ。
       近所の6,70人もの芸妓を抱えた庄内屋の養女になって、女主人・佐藤さとに可愛がられる。
       5歳から三味線と踊りを仕込まれ、9歳で新潟随一の市川登根に師事。
       12歳で庄内屋の人気舞妓になる。
       19歳(明治32年)で上京。
明治32年 20歳で女役者・市川九女八に弟子入り。市川が懇意にしていた依田学海、佐々木信綱も師にする。
明治35年 欧州から帰国した川上音二郎一座の明治座「オセロ」に貞奴の鞘音夫人の侍女役で出演。
       藤間流の家元勘右衛門(松本幸四郎)に入門。
明治43年 6年の修行を経て藤間流の名取りとなり、藤間静枝になる。帰郷しないことに怒った義母(佐藤さとは亡くなっているので庄内屋シンか?)から仕送りを止められ、新橋の芸者屋沢海屋から元巴家八重次として芸者に出る。
明治43年 永井荷風と会う。荷風32歳、八重次31歳。
大正3年3月 永井荷風と結婚。大正4年2月、荷風を捨てて家出。
大正6年 東京美術学校・教授の和田英作の後援で「藤蔭会」第一回公演を実施。
       回を重ねるに従って新進の芸術家を次々にスタッフに迎えて、従来の日舞から脱却。
大正10年 藤蔭会は新舞踊団体として宣言。童謡舞踊、新民謡運動をスタート。
大正12年 麹町に藤蔭会本部を設ける。弟子に内田きん子、ゆう子など。水谷八重子、岡田嘉子らも藤蔭会に出演。
       中山晋平や佐藤千夜子、岡田嘉子らと童謡運動で全国を巡業。「てるてる坊主」や「波浮の湊」を踊る。
       この頃、「三田文学」編集担当の慶大生・勝本清一郎を口説く落とす。藤蔭43歳、勝本25歳。
昭和2年 勝本は「三田文学」に静枝との情交を11月から「昌作・康子」「肉体の距離」と題した小説などに発表。
昭和3年 築地小劇場の舞台を制作した欧州帰りの美術家・村山和義にあって女の手管で口説き落とす。藤蔭48歳、村山27歳。
      同年、藤蔭は渡欧。
昭和6年 革新的舞踊を次々発表の藤蔭に藤間流に抗議されて藤間姓を返上し藤蔭流家元を名乗る。
      左翼系芸術家の取り締まりが厳しくなり、次第に日本は戦火にまみれ出す。藤蔭も革新舞踊から転向。
昭和28年 第1回舞踊芸術賞受賞。
昭和34年4月 永井荷風死去。
昭和35年 紫綬褒章・受章。
昭和39年 舞踊家として初めての文化功労者に指定。
昭和40年 勲四等宝冠章を受章。
昭和41年 86歳で死去。


初代萬代橋の親柱の橋名「萬代橋」を庄内屋シンさんを通して柳原前光に書いてもらいました。


郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について書いています
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by moekire | 2013-09-23 14:19 | 萌え