逸見・ヴィアート・クロエさんが蔵織にやってきてくれました

逸見・ヴィアート・クロエさんが蔵織にやってきてくれました。少しフランス語の翻訳をしてもらっています。
ギンギンのパリっ子で、ファッションも決まっています。
逸見・ヴィアート・クロエさんは、
今、NHKのEテレ(教育テレビ)で、『テレビでフランス語』に出演しています。
(水曜日 午後10:25~10:50 再放送:(翌週)水曜日 午後0:00~0:25)
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そこでの、Chloé Viatte(クロエ・ヴィアート)さんの紹介文に、(パリ出身。幼いころよりクラシック・バレエを習い、仲間と劇団を結成してヨーロッパで活動。ソルボンヌ大学でフランス語教授法、パリ・ドフィーヌ大学で数学、INALCOで日本の民俗学を学び、1996年、新潟大学へ留学。現在、新潟大学などで非常勤講師を務める。人形浄瑠璃「猿八座」の一員としても活動中。)とあります。
人形浄瑠璃「猿八座」の重要メンバーで、「逸見八里」(へんみ・やさと)という芸名です。
人形浄瑠璃「猿八座」といえば、
昭和37年に早稲田大学の鳥越文蔵先生が大英博物館で発見した「弘知法印御伝記」正本から人形浄瑠璃『越後國・柏崎 弘知法印御伝記』が300年の時を隔てて、再演されました。越後の双竜、猿八座主宰西橋八郎兵衛と越後角太夫が暴れたガチンコステージは最高でした。

今年は、2013年10月20日(日)午後二時から、村上市『塩谷』の円福寺で『山椒大夫』を上演します。
クロエさんが熱演する、「猿八座」人形浄瑠璃『山椒大夫』を見に行きましょう
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http://shioyabase.web.fc2.com/ibennto.html
塩谷とは
新潟県村上市の荒川河口の『塩谷』地区は、その昔北前船で栄え、交易により醸造所、大工、船問屋、塩作りなどの商業が盛んになり港町というだけでなく宿場町としても栄えたそうです。
明日、10月13日(日)『塩谷の町屋散策』があり、たくさんある町屋の中を見学したり、いろいろなイベントがあります。
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その中で、『マルマス蔵』があります。知り合いの野澤さん(野澤姓が多い塩谷地区)の先代がやっていた醸造所の蔵造り工場です。今は廃業した後を地区の人達が手作りで造ったステージがあり100人ほどが入れるイベント会場(消防許可済)になっています。
http://shioyabase.web.fc2.com/kura.html
『マルマス蔵』説明に
「明治元年に母屋の土蔵が登記されたことからして、少なくとも江戸時代からは既に、創業していたことが偲ばれる。江戸時代は、酒の醸造業も盛んで、塩谷では桶職人が盛んだったとのことで、マルマスの蔵でも、醤油、味噌を醸造する傍らで、桶の製造部があったとされています。だから、今でも、多くの桶が館内に保存されていたと考えられます。
北前船が塩谷港にに寄港していた頃は、特に「北海道全土の炭鉱」に北前船に乗ってマルマスの醤油が渡って繁盛した歴史があります。  当時は、蔵の裏側の小川より川船に物資を積み塩谷港で荷の積み替えを行っていました。蔵の中に展示してある提灯は、大正時代のものであり、また、蔵ステージ棟は、古い酒蔵を移築したものである。また、藤塚浜にある、ふじの井酒造は、マルマスと関連があったとされています。
平成2年の最後の炭鉱「夕張炭鉱」が閉山を向かえてからは、醤油.味噌を地元売りと行商に切替、商売を余儀なくされました。そして、とうとう平成14年、後継者もいなくなったことも重なり、マルマスの蔵を閉めることになりました。」
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# by moekire | 2013-10-13 00:15 | 萌え  

8月10日に三代目藤蔭静樹さんが蔵織を訪ねてきてくれました。

会津八一祭』(りゅーとぴあ能楽堂8月9日)に招聘され、第二部の「舞踊と音楽」で、三代目藤蔭静樹さんが踊りました。翌日、初代藤蔭静枝と関係の深い蔵織をたずねてきてくれました。
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明治13年生まれの初代・藤蔭静樹さんは
日本人で初めて日本舞踊をパリで公演した人で、子供のころから新潟の妓楼・庄内屋(約300坪)に出入りし、蔵織に晩年住んだ庄内屋シン(佐藤シン)さん の妹芸妓(庄内屋八重・内田八重)となりました。当時、芸妓となるにはおかみ(佐藤さと)の養子となることが当たり前で、年上のシンは義理の姉芸妓となります。
初代・藤蔭静樹さんは、5歳から三味線と踊りを仕込まれ、9歳で新潟随一の市川登根に師事。12歳で庄内屋の人気芸妓になり、19歳で上京します。
明治27年に柳原前光が亡くなり、新潟に帰っていたシンは明治29年、庄内屋のおかみ・佐藤さとが亡くなっていた時には庄内屋を継いで代表となっています。その時、庄内屋八重(初代・藤蔭静樹)は16才。
19才(明治32年)で東京へ出てから、庄内屋シンさんがしおくりをしていました。d0178825_1342502.jpgd0178825_13431690.jpg
のちに永井荷風と結婚するが、荷風の浮気で、半年で静枝のほうから三行半の『文』を残してわかれます。新潟時代から和歌を詠んでいるほどの文学芸妓で、東京の新橋あたりをうろついている文化人たちに臆することなく対等に付き合っていました。踊りは新潟の当時の2大家本元(市川流、市山流)の市川流の市川登根によって厳しく鍛え上げられました。のちに、幼少のころより稽古で市山登根に何度もたたかれていたが、その厳しさに感謝していると語っています。終戦前後、新潟・柏崎に避難。戦後1964年(昭和39年)文化功労者となります。


蔵織によくいらっしゃる郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について詳しく書いています 
荷風と静枝の間に赤ちゃんができていて、その子供が、三代目藤蔭静樹さんのお父さんであるといっています。
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私も、今日始めて三代目藤蔭静樹さんとお会いして、
背の高いこと、あごのラインなどが荷風の写真とそっくりなので、まちがいないと直感しました。
五人のお孫さんと一緒でにぎやかでした。d0178825_13491422.jpgd0178825_13494958.jpg
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NHK『八重の桜』で有名な同志社女子大学卒業しています。(本名・佐土 市子さん)



初代・藤蔭静樹年表
明治13年 新潟市古町の寿司屋の次女として生まれる。本名は内田ヤイ。
       近所の6,70人もの芸妓を抱えた庄内屋の養女になって、女主人・佐藤さとに可愛がられる。
       5歳から三味線と踊りを仕込まれ、9歳で新潟随一の市川登根に師事。
       12歳で庄内屋の人気舞妓になる。
       19歳(明治32年)で上京。
明治32年 20歳で女役者・市川九女八に弟子入り。市川が懇意にしていた依田学海、佐々木信綱も師にする。
明治35年 欧州から帰国した川上音二郎一座の明治座「オセロ」に貞奴の鞘音夫人の侍女役で出演。
       藤間流の家元勘右衛門(松本幸四郎)に入門。
明治43年 6年の修行を経て藤間流の名取りとなり、藤間静枝になる。帰郷しないことに怒った義母(佐藤さとは亡くなっているので庄内屋シンか?)から仕送りを止められ、新橋の芸者屋沢海屋から元巴家八重次として芸者に出る。
明治43年 永井荷風と会う。荷風32歳、八重次31歳。
大正3年3月 永井荷風と結婚。大正4年2月、荷風を捨てて家出。
大正6年 東京美術学校・教授の和田英作の後援で「藤蔭会」第一回公演を実施。
       回を重ねるに従って新進の芸術家を次々にスタッフに迎えて、従来の日舞から脱却。
大正10年 藤蔭会は新舞踊団体として宣言。童謡舞踊、新民謡運動をスタート。
大正12年 麹町に藤蔭会本部を設ける。弟子に内田きん子、ゆう子など。水谷八重子、岡田嘉子らも藤蔭会に出演。
       中山晋平や佐藤千夜子、岡田嘉子らと童謡運動で全国を巡業。「てるてる坊主」や「波浮の湊」を踊る。
       この頃、「三田文学」編集担当の慶大生・勝本清一郎を口説く落とす。藤蔭43歳、勝本25歳。
昭和2年 勝本は「三田文学」に静枝との情交を11月から「昌作・康子」「肉体の距離」と題した小説などに発表。
昭和3年 築地小劇場の舞台を制作した欧州帰りの美術家・村山和義にあって女の手管で口説き落とす。藤蔭48歳、村山27歳。
      同年、藤蔭は渡欧。
昭和6年 革新的舞踊を次々発表の藤蔭に藤間流に抗議されて藤間姓を返上し藤蔭流家元を名乗る。
      左翼系芸術家の取り締まりが厳しくなり、次第に日本は戦火にまみれ出す。藤蔭も革新舞踊から転向。
昭和28年 第1回舞踊芸術賞受賞。
昭和34年4月 永井荷風死去。
昭和35年 紫綬褒章・受章。
昭和39年 舞踊家として初めての文化功労者に指定。
昭和40年 勲四等宝冠章を受章。
昭和41年 86歳で死去。


初代萬代橋の親柱の橋名「萬代橋」を庄内屋シンさんを通して柳原前光に書いてもらいました。


郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について書いています
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# by moekire | 2013-09-23 14:19 | 萌え  

『中央構造線の露頭』と『千と千尋の神隠し』と『湯立て神楽』(遠山郷・霜月祭り)と『遠山藤原学校』。

富士山の世界遺産バカ騒ぎよりも、天然記念物になった『中央構造線の露頭』のほうが重要なのだ。
長野県諏訪湖から南アルプスの脇を通って天竜川下流につながっている長い谷があります。それはグーグルアースで見ると極細の三日月か日本刀の反りのようにはっきりと見ることができます。(国道152号線)
 その真ん中に大鹿村(たいてい山中の鹿と名のつく地名は塩が出ているそうです)があり、日本列島を半分に分けた露頭(写真、灰色と茶色)が確認され、左右の岩の色がはっきりとわかります。
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 関東から紀伊、四国、阿蘇を通る『中央構造線』はナウマンゾウに名を残す、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンが命名し、新潟県でもおなじみのフォッサマグナも発見しました。フォッサマグナは糸魚川・静岡構造線と柏崎・千葉構造線の間に挟まれた谷面をいい、枝分かれした新発田小出構造線内に新潟市も入り、その途中に『栃尾』も入っています。
 
『中央構造線』は、もともと水平線のように九州から千葉まで平らでしたが、伊豆半島が嫉妬してぶつかり、今は、諏訪湖のあたりまで押し上げられて、山のような形になっています。その山の形の左稜線が、三日月のように見え、大鹿村や遠山郷(千と千尋の神隠し)がある谷間です。
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 大鹿村は原田芳雄の遺作映画「大鹿村騒動記」の村歌舞伎の残っているところで、『大鹿村中央構造線博物館』があり、近くで露頭を見ることができます。
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途中に日本一”気”の強い場所(零磁場)分杭峠(ぶんこうとうげ)がありましたが、不純な私はほとんど何も感じませんでした。
また、日本で初めて確認された御池山クレーター(40~50mの隕石が激突した)の谷山があり、さらに南下すると、遠山郷に着きます。

そして、遠山川は天竜川と合流し愛知方面に流れますが、そのまま南下して青峠を越えると静岡県に入り浜松に出ます。そこに秋葉神社があり、そこまでの谷道を秋葉街道(国道152号線)といいます。
秋葉といえばAKBの秋葉でおなじみの火伏の神様です。口から火を吐くガルーダ(迦楼羅カルラ)という神様で、昔から地殻変動での火山や亀裂から鉱物資源(たたら)の宝庫の道でもあります。
 (この秋葉街道は諏訪湖のあたりまでですが、それからの谷道は千曲川・信濃川水域となり新潟県栃尾の秋葉神社へとつながっています。戸隠の大権現が飛行してきたという新潟県栃尾の古い秋葉神社は、江戸時代に浜松の秋葉神社と自分のところが一番古いのだと争ったそうです。大岡裁きでは、栃尾は大権現の修行の地で、浜松は布教の地という裁きだったそうです。)

話はもどり、この秋葉街道沿いに遠山郷の村落(13の神社)があり、『千と千尋の神隠し』の宮崎駿が参考とした『湯立て神楽』の『遠山郷・霜月祭り』があります。
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 その『遠山郷・霜月祭り』は、鎌倉時代の祭りの原型が秘境とともに13の神社に残っていて、現在は人手不足のため8か所くらいで冬至近くに開催されています。
神社といっても、屋根の反り上がった姿ではなく、切妻・直線屋根で、神社名の額が掲げられていなければ、古い木造倉庫のように素朴な建物です。16坪(53㎡)ほどの神社内部にかまどが1基(釜穴は2~3)あり、大きな釜(径約1m)に遠山川の水を『流れに沿って』汲みあげ、薪を焚いて沸騰させます。
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風呂のように、釜の湯の中に神様を入れるのだと思っていたのですが、それは間違いで、釜の上空4尺(1.2m)ほどに井桁が組んであり、色々な紙垂(しで)や伝承紙型が下がっていました。そこに八百万の神々を招き置くのです。
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アニメのように神様たちを風呂にいれるのではなく、神様たちを釜の上空で蒸(サウナ)してやるわけです。そして、日没前からお囃子と、神事が行われ、夜を通して剣舞やいろいろな面をつけたものたち(動物、人、天狗など)が舞い続け、翌日の朝まで行われます。
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『遠山郷・霜月祭り』の開催神社は13社あり、基本は同じですが、それぞれの神事作法や出し物が違います。
神事や剣舞などが終わると、色々なお面(おもて)を被った者達が登場し、カマドのまわりで演じます。

その遠山郷に伝わる面(おもて)の種類は天狗、さる、狐、翁、しょんべんばばあ、遠山郷の領主など種類は数十面あり、その総数は膨大です。それらが、かわるがわる登場して釜のまわりで舞い続け、クライマックスは大天狗が現れ、素手で沸騰したお湯を四方に向けてまき散らし、それを浴びた者は無事に1年を過ごせるといいます。
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遠山郷の領主のお面といっても、顔は大きく、鼻も平たくてデカイお面で、どう見ても、中国(大陸)的な顔立ちで、どうも、地元のお殿様の顔立ちとは違います。都(名古屋)方面から天竜川沿いに伝わってきたお祭りは、お面もそのままの中国(大陸)的なものが多く残されているようです。
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徳川側についた二代領主遠山土佐守景直(遠山城主)は家康から食事の誘いを受けます。その時、お椀を手で隠しながら白米を食べていた遠山城主に、なぜ、隠しながら食べるのだとたずねると、貧しい地域なので、掻き込むような食べかたが恥ずかしかったと話します。その後、家康よりお米がおくられ、お椀に箸二本を乗せた家紋をいただいたといいます。(今川の家紋よりも、お椀の○から2本棒(箸)の左右先端が出ている家紋)
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その後、深刻な相続争いが起こり、領地を幕府に没収され徳川直轄になったという話です。
そういう表向きの説明とは別に、百姓一揆が引き金となり遠山一族は森の中で村人達に惨殺されたという言伝えがあります。
遠山郷の村民は鎌倉時代から伝わる『遠山郷・霜月祭り』の演目の中に、自らが惨殺した遠山一族の鎮魂をも織り込んで、したたかに生きてきました。

谷の民はそういう、自らの矛盾をも『霜月祭り』に取り込み、それを演じ直す(追体験する)ことで新しく生まれ変わり、明日を生きてきたのだと思います。
神社家屋内は、4間×4間ほどで16坪~20坪で、かまどを中心に神事と面舞いが次々と繰り出し、それを取り囲むようにお囃子と観客が一体となって、夜通し騒ぐわけですから、『熱い、煙い、眠い』が合言葉です。
仮面の化身達と村民の融合をせきたてるお囃子は、ワンフレーズをまじないの様に延々と繰り返し、冬至近くなって光を失いかけている神々の霊力を増殖し、再生をうながします。

案内文に『鎌倉時代に伝えられた宮廷の湯立て神楽に、遠山郷の領主だった遠山土佐守一族の死霊を慰める儀式が組み込まれ、独自の形式で伝承されている。「霜月」の名称は陰暦11月に行われることに由来しており、最も日照時間が短くなる時期に神々を招くことで「万物の生命力をよみがえらせる」と信じられている。』とあります。
そして、天狗やカラス天狗の面(おもて)には、動脈、静脈を表しているのか、赤と同じ数だけ真っ青の天狗面もあります。
猿楽・狂言の始まりなのか、猿や狐、しょんべんばばあの面まであり、それらの登場のときは皆、大笑いでした。
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(演目順番、剣、フリコメ、ヤーハイ、キンタマ、タメタリ、オケツ、タメタリ・・・)

 13の神社での竈(かまど)は鉄製の五徳と土などで固められたカマドの2種類があり。名古屋(都)に近い神社ほど鉄製の五徳(より文化的なもの)が使用されていますが、上流の谷深い地域の神社では土で固めた竈(かまど・文化的でない)が毎年修復され伝承されていました。
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なかでも、上流に位置する白山神社(写真)のカマドは四方に御幣を立てるお椀型土饅頭が“おっぱい”のようで、少しエロチックですし、焚口が6か所あるため、6本足の生き物のようです。
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上空の井桁に取り付けられた形紙の切り模様には全て意味があり、真ん中に小さな照る照る坊主のようなものが、2個逆さまにぶら下げてありました。
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中身は何かと聞くと、豆(五穀)が入っているが、ようは、●●玉だといわれました。なるほど、下は乳房のような土饅頭と焚口には炎が噴き出し、蒸気でむせかえっているのです。
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 とくに、この遠山郷白山神社(写真)の土竈(かまど)はあまりにも素晴しく、思わず感嘆の声をあげてしまいました。

 『湯立て神楽』は釜の水を沸騰させ神様を招き入れます。それは、火と釜と水を使った『料理のカタチ』と似ています。失礼ながら、調理される材料は神様ということになります。
  レヴィ・ストロースの『料理の三角形』・『生のもの』『焼いたもの』『腐ったもの』『煮たもの』に当てはめてみると、どのような構造になるでしょうか。
神様を釜(文化的手段)の中に入れて、お風呂(42度)の温度を保っているわけではありません。湯は常に沸騰(100度)させてあり、釜の上の井桁で神様を『蒸している』という状態です。
しかし、蒸すといっても、しっかり囲われた蒸し器(文化容器)もありません。カマドからあふれ出た煙に燻(いぶ)されてもいますが、燻製製造容器もありません。
空中の井桁では、まわりの空気にさらされて、スカスカの状態ですが、祭りが始まりますと、火の粉と煙と湯気が混然となって井桁上空の神様を包みます。
クライマックスには大天狗が現れ、気合もろとも素手で神様に熱湯をかけます。その時、熱湯の飛沫(しぶき)をあびたまわりの村民は1年間無病息災にすごせるといわれています。

この空中井桁装置では、焼く、蒸す、いぶす行為があり、最後は熱湯をかけて煮るという要素も含まれています。
一つの要素に限られているのではなく、『生のもの』『焼いたもの』『蒸したもの』『いぶしたもの』『煮たもの』と全ての要素が含まれている調理方法ということになります。

西欧の神様は自然も人間も超越した存在ですが、日本の八百万の神様は万物の中にあり、自然に近いものです。
自然に近いものは『生のもの』の範疇に入ります。  
それならば、日本の神様(生のもの)は、放置しておくと自然に腐るのでしょうか。
と考えたら、宮崎駿は、千尋が世話をした神様を『おくされ様』と呼んでいました。
『御腐れ様』とは、良く言ったもので、日本の神様は、1年間放置されると腐ってくる『生のもの』で自然に属するもののようです。
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この、遠山郷の『湯立て神楽』(霜月祭り)は最も日照時間が短くなる時期(冬至)に神々を招くことで「万物の生命力をよみがえらせる」とあります。
招いた神様たちを、風呂釜に入れるのではなく、ましてや、直接火で焼いたり、煮えたぎる釜の中に入れるものでもありません。
古くから伝わる『遠山郷の湯立て神楽』の装置は、釜の上、1.2m上空に井桁を吊るし、そこに紙垂(しで)や伝承紙型を飾り、それらの結界の中に神様をお招きします。
空中(空気中)に置かれた神様たちに対して、怪しい特殊な精力剤などは使わずに、古代から人間が獲得してきた全ての料理要素(焼く、煮る、蒸す、いぶす)を駆使して、おもてなしをし、再生を促しています。
はたして、全ての料理要素でおもてなしをすることに、どんな意味があるのでしょうか。

狭い木造神殿の窓からは光と煙と蒸気が噴きで、中から笑いとお囃子が聞こえてきます。 雪降る山の動物たちが眺めたとしたら、霜月祭りの小さな神殿は一種の生命体のように見えるかも知れません。
すべての要素(焼く、煮る、蒸す、いぶす、空気のまま)といっても、ここにはもう一つの要素、『発酵』がありません。
しかし、それだからこそ、人間は神々の神殿にお神酒をあげてあるのです。

熱湯上空の天蓋に飾られた伝承切り紙『ザゼチ』の揺れるさまで、八百万の神様の片鱗を可視化し、熱気と煙でみずからトランス状態になった村民たちはさらに深いところで神々に近付き体現しようとしています。
日本の神々は、自然(生のもの)と表裏一体のものですから、1年も野に放たれ、空気にさらされると、発酵ではなく御腐れ様(おくされさま)になってしまいます。さすが、宮崎駿はわかっているのです。

また、古代人の思考を探求した折口信夫(釈超空)も1920年(大正9年)、岐阜県恵那市から長野・愛知・静岡3県の接点(坂部)を通って、秋葉街道を交差するように静岡市まで探訪しています。しかし、新野の雪祭りや名古屋方面から天竜川沿いに伝わってきた『花まつり』などは見ていますが、その支流(上流)の遠山川の『湯立て神楽』(霜月祭)までは訪れていませんでした。

そして、学生時代、自転車旅行で偶然立ち寄り、遠山郷に魅せられた藤原直哉さんは、その27年後、この限界村落に『遠山藤原学校』を2007年に開設し、日本再生はここから始まるのです、といって精力的に活躍しています。
私はその第一回・遠山藤原学校(2007年4月21日)に出席し、始めて遠山郷を訪れました。
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(2007年第一回・遠山藤原学校の懇親会、熊と猪と鹿の肉をいただきました)

◆蛇足ですが、なぜか、ナウシカのミト爺の祖先のお面もあった。
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# by moekire | 2013-08-02 07:04 | 萌え  

昭和7年の『新潟市立西堀幼稚園』の卒園アルバムに『青い目の人形』が写っていた。

昭和7年3月、卒園アルバム(思出で)をSさんが発掘しました。
 表紙には、新潟市立鏡淵・西堀幼稚園とあります。(鏡淵と西堀という文字が並列にあらわされていますので、鏡淵幼稚園と西堀幼稚園が一緒にあったのかも知れません。)
 正面の門には右側に『市立西堀幼稚園』、左側に『新潟夜間女学校』とあります。昭和37年の住宅地図には西堀社会館洋装部とある何か関連があるのか?
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 昭和7年→昭和17年→終戦→昭和27年と、くしくも、10年ごとの写真が見つかったことになります。こうやって並べて見てみますと、昭和7年の子供たちのほうが、身なりもしっかりと豊かな雰囲気です。終戦後、7年目の子供たちが一番貧しそうですが何かリラックスしています。(卒園アルバムはなく、卒園集合写真1枚のみです)
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昭和7年
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昭和17年
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戦後、昭和27年

 昭和7年のお雛様の右脇に『青い目の人形』が写っていますが、昭和17年の雛祭りの写真には姿を消しています。
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昭和7年、青い目の人形が大切に箱の中で飾られている。
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昭和17年の雛祭りには、青い目の人形は無い
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 Wikipediaの『青い目の人形』には 
 (日露戦争後に日本が満州の権益をにぎると、中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだで政治的緊張が高まっていた。また、1924年に成立したジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)もまた、両国民の対立を高めつつあった。そんななか、1927年(昭和2年)3月、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が提唱して親善活動がおこなわれた。その一環として、米国から日本郵船の天洋丸で日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が贈られた。仲介者は渋沢栄一であった。「青い目の人形」は全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎された。返礼として、渋沢栄一を中心に「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体が同年11月に日本からアメリカ合衆国に贈られた。           日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は反米・反英政策により敵性人形としてその多くが焼却処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を隠し、戦後に学校等で発見された。現存する人形は2010年現在、323体[1]にすぎないが、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されている。)Wikipedia
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# by moekire | 2013-07-20 22:15 | 新潟の昔のこと  

坂口安吾が入園した新潟市立西堀保育園(幼稚園)

坂口 安吾(さかぐち あんご)本名、炳五(へいご)。1906年(明治39年)~ 1955年(昭和30年)、明治44年(1911年)4月、5歳で西堀幼稚園に入園とありましたがどこの場所かよくわからなかったのですが、笹川餅やさんのお話でわかりました。やはり笹川餅屋さんの斜め向かいの鍛冶小路角にあった西堀幼稚園(西堀保育園)でした。
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昭和27年・市立西堀社会館保育園とある。また、下は戦前の昭和17年の正面玄関の写真で、右側の手前にL型に建物が続いている。(上の写真の建物の真中が入り隅)戦前は幼稚園、戦後、幼稚園と保育園がダブってあった。
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少し散財している安吾家でも、安吾はおぼっちゃまで、毎日お付きのもと一緒に通っていて、帰りには向かいの笹川団子屋さんでお菓子を買ってもらったという話です。建物は安吾当時のままで、保育園も幼稚園も入ると一緒で、預かり期間の長い短いで違ったということらしい、今の管轄の違いが当時からあったのかも知れない。
戦後の昭和27年の方が貧乏で卒業写真1枚だが、戦争前の昭和17年は卒業記念アルバムがもらえた。アメリカと戦う前は豊かだったのです。当時のアルバムの写真で子供たちの生活がうかがえます。
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ラジオ体操と人形劇
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お雛様、左の薪ストーブの上は持ってきたお弁当を温めている鍋のようなもの。戦前はお弁当でしたが、昭和27年はナント幼稚園ですでに給食がありました。アメリカの脱脂粉乳を無理やり飲まされました。
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五月人形と相撲
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お絵かき
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ビンゴのような紙を持っている、何でしょう?
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A白山公園の信濃川埋め立て地まで移動しての運動会。公会堂や県政記念館が見える。
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B砂遊び、綱引き、旧県庁(現・市役所)と物産館が移設され科学館となった建物が見える。
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昭和22年の新潟市地図で場所を描きました。
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# by moekire | 2013-06-22 19:41 | 新潟の昔のこと  

大正から60年間書き続けた日記、新潟市坂井清衛個人日記

新潟県立・文書館の『文書館だより』第14号に私が子供のころに遊んでいた忠雄さんのお父さんの日記が載っていた。
『文書館だより』第14号 拡大PDF
表面d0178825_14563229.jpg裏面
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大正から60年間書き続けた日記、新潟市坂井清衛個人日記
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鳥居医院の右が坂井さんで戦後、私の子供のころにはヒエ、粟、など鳥の餌などと煮干し(ほしこ)なども木の箱に入ってたくさん販売していた記憶があります。楕円形のお風呂桶の風呂に入らせていただいた記憶もあります。先日新潟県立図書館の中の文書館へ行って閲覧してきました。お風呂の工事のことが書いてありました。とにかく膨大な量なので、時々閲覧しに行こうと思っております。(坂井、かさやと書いてある場所は駐車場になっており、先日、その件で忠雄さんのお兄さんが蔵織を訪ねてきました。その折にお父さんの日記の話を聞きました)
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一番左端が忠雄さんで、そのお父さんの日記です。
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戦後4~5年たった時の写真。昭和25年(1950年)ころ。
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# by moekire | 2013-04-19 16:01 | 新潟の昔のこと