亡くなった炎舎の店主小川俊充さんとオイリュトミーと蔵織と俳句

ギャルリ-炎舎(えんしゃ)さんのご主人、小川俊充さんが亡くなりました。

よりのつづき

それ以来、器の『要』について小川さんのうん蓄をたびたび聞かされました。器の面白さにハマると、底なしであろうことは感じていましたので、半分真剣に、半分うわの空で聞くようにしていました。
それよりも店の隅々に無造作に飾られた、いたずら描きのような絵やオブジェがありましたので、これは小川さんが描いたものかとたずねると、そうだと答えました。段ボールを引っかいたり、きざんで色を付けたものや流木の板に添えられたオブジェ、落書きのように描かれた絵は、絶妙な雰囲気を醸しだしており、個展として飾られている器作家の作品よりはるかに魅力的なものでした。特に、仙人風意識なども忘れ、無心に創られたものは絶品です。
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小川さん本人の個展をやらないのですかと聞くと、『むふふ、まはぁ~』といって、半分いやいやという顔をして、半分まんざらでもない顔をしていました。
近々、西堀に古民家を利用したギャラリー蔵織をオープンしますので、炎舎オーナーの個展を蔵織で、蔵織店主の個展を炎舎でやりましょうかと、気軽に言い合っていたのですが、かなわぬものとなりました。

昔(1970年代)の新潟の話をしていた時に、たまたま、シュタイナーの話題が出ました。私も1974年に間章から聞かされて知ったシュタイナーの建築フォルムに魅せられて、のめり込んでいた時がありました。折しも、1975年、子安美知子の『ミュンヘの小学生』が出版されシュタイナーの教育実践効果も流布されました。その中のダンスのようなものをオイリュトミーといい、『意識と身体の乖離を埋め、言葉と音楽の力を全身の動きに変換し、体内(ミクロ)エネルギーを宇宙(マクロ)エネルギーに関連づける身体運動』とでもいうものです。
そんなオイリュトミーを29才当時の小川さんが踊っていたという話を聞いた時にはビックリしました。目の前の仙人のような風貌とオイリュトミーと全然繋がらなかったのですが、昔を思い出し、狭い炎舎の中で小川さんはひらひらと踊りだしました。
後日知ったのですが、1983年、新潟市での第一回オイリュトミー集中講座(舞踊家・笠井叡(あきら) 氏)に鳥の歌(本町2)の店主、早津さんが、小川さんと一緒にオイリュトミーを踊っていて、早津さんもそれ以来の知り合いだと言っていました。

しばらくして、炎舎さんの並びに築百年の町屋をギャラリー蔵織としてオープンしました。お金がなかったので、前の住人が使っていたプラスチックの照明器具をそのまま和紙で包んでしまおうと思い、ホームセンターで色々な和紙を買ってきて、照明カバーを作りました。
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こういうことは小川さんが好きそうだと思い、自由に作ってみてはと言って、数種類の和紙を炎舎さんに置いてきました。案の定、小川さんは悪乗りしてくれて、数日後、細い枝を四角に組んで、そこに和紙を絡めたものを両手に抱え、蔵織まで持ってきてくれました。あいにく、風に吹かれ、抱えている和紙のオブジェは半壊してしまいましたが、取り付ける時になんとか形にしました。蔵織の喫茶室の照明がそれです。そのあとはもう少し堅い和紙で作ったもので、私がトイレ前のダウンライトの下に画鋲でとめました。枯れたおくらの茎が二本添えてあり私の好きな照明です。
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よほど本人も面白かったのか、2階階段上のカバーにはクレヨンで何か描いてあるものも持ってきました。
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万一ほしい人がいたら売ってしまうから、作家名を書いておいてと言ったら『むふふ、まはぁ~』といって『25.000 和照明具 村明隆風』と書いたものが5年間まだ蔵織の柱脇に貼ってあります。(蔵織に来た時に見つけてください)
天気の良い西堀の歩道を両手で抱え、風から和風オブジェを守りながら歩いてくる小川さんの姿を今も鮮明に覚えています。

少しピンボケですが蔵織オープンパーティで小川さんの元気な姿が写っておりました。
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元気がよすぎるので、小川さんだけぶれています。(右からせきやさん、小川さん、左端が坂爪さん)
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東日本大震災後のある日、3.11以降、DMを出しても見に来てくれるお客さんががっくり減っていると、いつになく真面目に言っていました。仙人のような『むふふ、まはぁ~』という雰囲気はなかったので、3.11以降はギャラリー関係はどこもそうですよと相槌をうち、蔵織などは3.11以前からつぶれそうですよ『がははは~』とカラ元気で答えたことを覚えています。

それからしばらくすると、小川さんは炎舎を休んでいることが多くなっていて、具合が悪いのだろうと思っておりましたら、知らない女性の方を見かけるようになりました。後でわかったのですが、その方が奥さんでした。奥さんとは初対面なのでストレートに病状は聞けませんでしたが、深刻な事態であることは察することができました。
手術をしたと聞き、旨いものを食べさせてほしいと、お見舞いを渡しましたが、ベットの中でも頭と筆くらいは使えるはずだと思い、つたない俳句を書いて奥さんに渡しました。

手術後、ご自宅の近くをゆっくりゆっくり歩いているお二人に偶然出会いました。ひどく痩せてはいましたが元気そうでしたので安心しましたが、のちの返歌を見て覚悟を知りました。

炎舎退院す

割れずとも病むことのある夏茶碗

青青と巣立ちの後の夏瓦
                        恒風

散文が得意な小川さんは、俳句などやったことがないぜ、適当に書いた、といいながら、返してくれました。

病むたびに味わい深くなりにき黒茶盌

熱すぎて道に迷うてばかりの旅立ちかな
                           酔魚

酔魚が小川さんの俳号です。私には覚悟を決めていたことが伝わってきました。
また、返して

逃水や 迷うは力 焼織部

病むほどにもの見えてくる秋の水

水澄んで亀の泳ぎの酔い魚
                     恒風 2012-8-10

炎舎によく行っていた田代さんが蔵織に来たので、あなたも参戦しなさいといって書かせた句。

銭亀の逃げいしはずが戻りきし

                    草猫 2012-8-21

以上は奥様を通して小川さんに伝えてありました。

昨年(2012年)の暮、小川さんに二度、炎舎の店内でお逢いしました。一度目は、小川さんがたまたま病院の帰りに炎舎に寄った時で奥さんや作家さんなどもおりました。

最後に会った時には店に小川さん一人でいて、奥さんは留守でした。めちゃくちゃ痩せてはいましたがしっかりと立っていました。少しは快復したのかなと思ったのですが、やはり疲れているようでしたので、椅子をうながしました。
覚悟を決めた者とそれを知っている者の会話などはありません、慰めるどんな言葉も陳腐になってしまいます。
お互いしばらく沈黙が続きましたが、私が初めて炎舎を訪ねた時のように、気にいった焼き物を指さしてこれはいいねと言うと、小川さんは堰を切ったように話し始めました。
いくら仙人でも受け入れがたい現実に憤りを感じ、悔いも残っているはずです。質こそ違え、そこのところは痛いほど感じます。
小川さんは自分の現状を打ち消すように、私の指差した器のことを饒舌に話し続けました。やっぱり、器のことを話す時は生き生きしています。私はそれを頷いて只々よく聞き続けていました。

今年(2013年)の1月20日、私は向かいの床屋さんの帰りに炎舎さんによって、奥さんに小川さんの様子はどうかと訪ねると、15日に亡くなりましたという返答です。思わず絶句しました。
お店は作家さんの個展をそのまま開いて、身内で静に葬儀を済ませたそうです。

あらためた香典などはかえってめんどうをかけることになるので、作品を買うことが小川さんが喜ぶことだと思い2点買い求めました。小川さんがいれば、この2点の器(星野貴代氏作)にどんな言葉を添えたのでしょうか。

小川さんに伝えていなかった句。実は、2012-8-10に、     

温かき嘔吐もわが身白南天

と書いて

炎天に 旅立つ時を忘れけり

炎夏果て 静かに冷える登り窯
                     恒風

合掌 




ギャラリ-炎舎(えんしゃ)さんのご主人、小川俊充さんが亡くなりました。①


炎舎の小川俊充さんの彼岸からの『ことば』をもって焼き物のことが『わかる』
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# by moekire | 2013-02-16 17:03 | 新潟市のこと  

2013年明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。
にいがた文明開化ハイカラ館さんのブログ『新潟空港事始めー③ 戦後ー1』で新潟飛行場の昔の話が大変詳しく載っています。
戦後空港は進駐軍に接収され、米軍基地となりました。(昭和20年)その後の在日米軍の戦略計画の変更もあって、昭和33年3月に日本に返還され民間空港となりました。
戦後の定期航空路 昭和33年~全日空、新潟ー羽田間のパンフレットが載っています。飛行場のことは文明開化ハイカラさんにまかせて、、観光バスのイラストマップに白山公園内の『科学技術博物館』の絵が載っていました。旧新潟県庁とッ旧新潟県立図書館に挟まれてあります。
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1953年・昭和28年に旧新潟県立図書館が出来ていますので『科学技術博物館』(新潟県物産陳列館移築した建物)の全館が明治33年~ 移築後、昭和8年~昭和33年まではあったようです。
1958年・昭和33年ころの新潟市の住宅地図
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新潟県物産陳列館(現在の市役所)写真、明治34年 (金城酒販・高橋コレクション蔵)
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新潟県物産陳列館が旧県庁建築(現市役所の場所)のため、白山神社横(現市役所分館のあたり)に移築された。その後上の写真の左側の部分が白山高校として使われていました。
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完成した旧県庁と解体移設された物産陳列館の記念はがき。(↓ 下の写真は拡大)
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同じ場所で、全国菓子組合の第9回全国菓子飴大品評会が開かれていた。
(・昭和8年5月・第9回全国菓子飴大品評会会場写真)
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正面庭の中央に円形の噴水池を白い柱で飾っている。下の写真に飾りを取った円形池とドーム型噴水塔が見える。
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南京陥落祝賀旗行列 昭和12年1937年 商工奨励館の2階窓から撮影されたようだ。

下の写真は昭和37年の写真。手前旧県立図書館の裏側に旧白山高校の屋根写っている。明治の新潟県物産陳列館の左棟屋根と同じ形だ。1964年の新潟地震以後、この場所に県庁第二分館(現市役所第二分館)ができる。
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「思い出ほろろん・新潟編」(著者:中俣正義、発行:新潟日報事業者)という写真集があった。その88ページに「新潟県物産陳列館」移築後の写真があった。
ページの解説では、『県庁分館(現市役所分館)、旧県立図書館から白山駅方面。(昭和37年7月)』とあり、旧県立図書館の真裏の黒い屋根の建物には書かれていない。新潟地震(昭和39年)の前である。
旧県庁分館(現市役所分館)の左、旧県立図書館の真裏に黒い屋根が見える。それが当時白山高校(定時制)の校舎として使われていた「新潟県物産陳列館」移築後の左ウイングの屋根である。本館(科学館)と右ウイングは旧県庁分館(現市役所分館)に変わっている。
左上に木造長屋の白新中学とグランドが見える。その左側に今、甲子園で活躍の新潟明訓高校があった。残念ながら写真画像からぎりぎり外れている。
正面の旧県立図書館は平成になって現在の鳥屋野潟脇へ移転した。写真中央真下に白山神社の神楽殿の優美な屋根棟が見える。
ボケて、思い出すのも困難になってきたが、写真はしっかりと当時の姿を残している。あらためて膨大な写真ネガを残してくださった中俣正義さんに感謝。

にいがた文明開化ハイカラ館さんのブログの 昭和39年の新潟地震の写真。国体中の正面奥の建物が旧県立図書館で左のビルは旧県庁分館。その手前下に旧白山高校の黒い屋根が残っていて写真に写っているかな?と探したけれども見当たらない。地震以後、図書館の煙突が傾いている。第19回国民体育大会(新潟国体6月6日~11日)が終わって、6月16日に新潟地震は起こった。
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同じく新潟地震で、上空は石油タンク爆発の黒煙。ヘリコプターが飛んでいるすごい写真だ。本人は旧県庁分館の屋上にもぐりこんで、撮影したようだ。高校生があちこち動き回って撮影し、貴重な写真を残してくれました。写真正面の白い4階建ての建物が新築の白山高校。左の建物は公会堂の後方の煙突、手前の建物は旧県立図書館の屋上と傾いた煙突。真中の広いところは旧新潟野球場(現県民会館と一部りゅーとぴあ)で、手前のグランドから飛び立ったヘリコプターをとらえている。
結局白山高校の移転で明治の『新潟物産陳列館』の建物は消えてしまうことになっていたらしい。
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新潟市白山公園の裏、(新潟市役所分館のあたり)に商工奨励館があった

1901年明治34年新潟県物産陳列館開館の松の木

新潟県物産陳列館正面写真、明治34年


『新潟空港事始めー③ 戦後ー2 在日米軍ネタ』
『新潟空港事始めー④ 戦後ー2 在日米軍ネタ―Ⅱ』
『新潟空港事始め―② 市営新潟飛行場』『』
『オイラが昔、非行少年?・・あいや、飛行少年!だった頃・・・・新潟空港事始め ①』
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# by moekire | 2013-01-02 03:25 | 新潟の昔のこと  

まちかど歴史探訪に栃尾の貴渡神社が載っていました

新潟日報(2012-12-26朝刊)に長岡市栃尾の貴渡神社が載っていました。
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貴渡神社は、栃尾地区の巣守神社境内の一角に鎮座している。ここは、地場産業を興すために養蚕を奨励し縞紬を広めた栃堀の庄屋・植村角左衛門貴渡を、栃尾織物の祖として奉るために建てられた神社。社殿は小さいものの、全体が雲蝶の彫刻で埋め尽くされている。その中でも見ごたえがあるのが、当時の養蚕の様子を奥行きのある構図で描いた作品。桑摘みや蚕の世話をする様子、繭を煮たり機織りに励む女性などが、中国風の意匠で表現されており、当時の人々の暮らしぶりや、この地の活気が生き生きと伝わってくる。ほかにも、神社を守る竜や十二支などの彫刻もあり、雲蝶の豊かな作風と表現力を感じることができる。(栃尾観光協会)
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貴渡神社から車で5分のところに『静御前』の墓がある。NHKの大河ドラマ『義経』で紹介されてから、まわりが騒ぎ始めてきらきらな看板などを建て始めた。だれも注目していなかったころに撮った写真です。(まわりに派手な看板などはない)
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すぐ近くに『静御前の墓』を守ってきた曹洞宗・高徳寺がある。2度の火災に合い文献はない。建物も普通の住宅であるが、石畳は古い。中の部屋に御本尊は安置してある。
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(新潟日報『晴雨計』2004/4/01)
大正生まれの母は一度も社会で働くという経験をせずに一生を終えた。母の現実離れした希望や、たとえのずれた小言は父や成長した子供たちからも世間知らずだと言い返されていた。

新潟市の大和デパート隣で染物屋を興した祖父は現役中に脳梗塞で亡くなった。祖母と尋常小学校の母が残され、女二人の家族は祖母の実家のある栃尾に一時身を寄せた。
  醸造業を営み、にぎわっていた実家で趣味の三味線などを習い女学校にも通わせてもらった。大雪と伝統文化のあふれる栃尾で思春期を過ごした。十八歳で教師になりたての父と結婚し、祖母の死後、新潟に戻り終戦を迎えた。貧しくも男四人の子を抱え戦後の混乱期を越えてきた。

母は結婚式で始めて夫の顔を知ったと自嘲気味に言い、また思い出したようにうちの祖先は栃尾の神社に祭られているのだよといっていた。両方とも子供心にそんな事は無いだろうといつも生返事で聞いていた。

亡くなる数年前に病の母の代理として栃尾の法事に出席した。子供の時からの疑問を小声でたずねたら二つとも本当だった。帰りに栃掘にあるという貴渡神社を訪ねた。

栃尾織物を広めた祖神、縞紬の元祖である植村角左衛門貴渡翁の霊を祭ったと掲示されていた。小さな神社だったが繭生産から機織工程までを表した雲蝶作の伽藍彫りは四面きれいに残っていた。

  隣には母の祖先の庄屋植村家の大きな石組みが残り、河井継之助一行避難のおり、じゃまな什器をここに預けていったという話も聞いた。

  父親の影響を知らぬまま、夢のような短い思春期を過ごし、若くして激動の昭和に翻弄されてきた母は自らをかえりみる余裕もなく、世間知らずだと言われながら七十半ばで亡くなった。

今、貴渡神社を再訪し、このルーツこそ意識されることなく母を支えていた微かなプライドだったのだと分かった。

  それならば、もう少し真剣に母の気持ちを受け止めてやればよかったと、花冷えの空を見上げながら思った。
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# by moekire | 2012-12-29 05:56 | 新潟の昔のこと  

公益財団法人『にいがた文化の記憶館』がメディアシップ内に開設。藤蔭静枝(静樹)の写真が・・・

新潟県出身者の文化人が残した業績を後世に伝える拠点施設
『にいがた文化の記憶館』が公益財団法人となり2013年2月オープンの新潟日報新社屋『メディアシップ』(新潟市中央区万代3)内に開設されるそうだ。同館長の神林恒道(現・会津八一記念館館長)氏が寄付を募っている。
なぜか、庄内屋しんさんの妹芸妓・藤蔭静樹(内田八重・藤蔭静枝)の写真が掲載されている。
蔵織の『新潟花街史を語る』(11回シリーズ)でも藤村誠先生に詳しくお話していただき、また、10月の蔵織・夜話で長岡 河井継之助記念館・稲川明雄館長さんに『藤陰静枝の舞踊』という題で講演していただきました。
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日本人で初めて日本舞踊をパリで公演した人で、新潟の妓楼・庄内屋シンさんの妹芸妓(庄内屋八重・内田八重)である。新潟から東京新橋芸者になったころは、シンさんが援助していた。のちに永井荷風と結婚するが、荷風の浮気で、半年で静枝のほうから三行半の文を残してわかれる。新潟時代から和歌を詠んでいるほどの文学芸妓で、東京の新橋あたりをうろついている文化人たちに臆することなく対等に付き合っていた。踊りは新潟の当時の2大家本元(市川流、市山流)の市川流の市川登根によって厳しく鍛え上げられた。のちに、幼少のころより稽古で市山登根に何度もたたかれていたが、その厳しさに感謝していると語っている。終戦前後、新潟・柏崎に避難。戦後1964年(昭和39年)文化功労者となる。
(昭和58年(1983年) 市川流藤間小藤が逝去、新潟の市川流が途絶える。現在新潟では市山流が柳都さんを指導している。)
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内田八重
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市川登根
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左・藤蔭静枝、右・晩年の庄内屋シン
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庄内屋シン

郷土史家の児玉義男さんが永井荷風と藤蔭静枝のあいだの子供について書いています

初代萬代橋の親柱の橋名「萬代橋」を庄内屋シンさんを通して柳原前光に書いてもらいました。
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# by moekire | 2012-12-15 01:07 | 新潟市のこと  

『若冲・応挙の至宝』展の中に『十牛図』(周文筆)が飾られていた。

みなとぴあと会津八一記念館で『若冲・応挙の至宝』京都相国寺と金閣・銀閣名宝展11月25日(日)を見てきました。
みなとぴあの駐車場は満員。警備員の人がレストランのイベントのため、待ってても全然空くことがありませんと言われて、みなさんユータウンしていました。せめてレストランとみなとぴあ展示本館分と駐車場を半分に分けておいたらいかがなものかと優しく文句を言っていたら偶然1台分空いて入れました。ラッキー。
『若冲・応挙』は有名なのでいまさら言うまでもありませんが、伝、周文筆の『十牛図』が展示してありました。20代後半ユングにのめり込んでいたころ、関連書籍でみてずっと気になっていた『十牛図』の絵に出会うとは、またラッキーでした。
色々な『十牛図』の絵がありますが、やはり伝、周文筆の『十牛図』の絵にひかれていました。自然の中で牛をさがすというよりも、なしかしら不安な少年の姿が印象的ですし、牛の勝手な表情や牛の背で横笛を吹く少年の顔も穏やかで、描いた周文の悟りの深度がうかがえます。
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 ①尋牛(じんぎゅう)
  牛を見失っている少年の足は素足である。
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 ②見跡(けんせき)
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③見牛(けんぎゅう)
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 ④得牛(とくぎゅう)牛を捕まえる激しい状況に合わせて柳の枝が揺れている。
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 ⑤牧牛(ぼくぎゅう)
牛の目線は親しみを持って少年の姿を追っている。桜の花が咲いている。
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 ⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)
少年は両手を離して笛を吹く余裕があり、牛も得意そうである。人牛一体。
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 ⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
牛の姿はもうない。求めていたものは己の中に。それにしても、立派な建物です。庵ではなく修行堂の端か?千鳥格子の石畳みでドアは無いがカーテンがある。
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 ⑧人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
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 ⑨返本還源(へんぽんげんげん)
自然。川と梅と笹か?松竹梅ではなく、水竹梅。松は次の画像に顕れる。
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 ⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)
- まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。

と書いてあるが、牛を追った少年が悟りを開くと、はだけて腹のたるんだ(布袋様のような)人になtってしまうのか? 人このことは言えないが、現代社会ではだらしない肥満は自己管理のできない人間といわれていると、突っ込みを入れてみたくなる。
ビジュアル面では他人に無防備・安心・豊かさを与えるための仮の姿で、内心は全てを超越して、無垢と啓発の修行へ踏み出し、新たな少年と出会っているシーンなのだろう。 それにしても、新たな少年の足には何かの履物が見えるが、腹のたるんだ(布袋様のような)人の足はあいかわらず裸足だ。
大きな袋の縫い目は合理的で、少年に与えようとしている竹籠の中身は何なのだろう。
この姿では寒さで風邪をひいてしまうが、布袋様こそサンタクロースの原型である。
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# by moekire | 2012-11-24 09:42 | 新潟市のこと  

新潟市生涯学習センター主催の「市民大学」で東洋文化新聞研究所代表・羽島知之先生の講演がありました。

新潟市生涯学習センター主催の「市民大学」が始まりました。
「市民企画講座」というものがあり、『蔵織夜話』河井継之助記念館長・稲川明雄先生の歴史講座に参加されていた、
鈴木哲氏の提案企画「そとから見た新潟の歴史」が採用され, 始まりました。
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テーマの「市外(そと)からみた新潟の歴史」は新潟市の外側からの視点で色々な先生に語っていただくという企画です。新潟市内部だけの視点ですと井の中の蛙的になってしまいます。複眼的な内容と多彩な講師陣を配して新潟の歴史を読み解くという鈴木氏の発想で、その多彩な講師の先生方に一人一人交渉し具体的な10回シリーズにまとめ上げた鈴木氏の行動力には感心させられます。

■ 9月29日、第3回講座 「新聞事始ー新聞誕生と草創期の新聞事情
先日第3回目の講座で東洋文化新聞研究所代表・羽島知之先生の講演がありました。 (にいがた文明開化ハイカラ館)
貴重な資料 「草創期の新聞」-日本で最初の邦字新聞、官板「バタビア新聞」文久2年や新発見の民間新聞の祖、「新聞誌」慶応元年など数多くの博物館クラスの原紙を持参してもらい、初公開して頂きました。


我が国草創期の新聞

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講演前の展示作業。
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講演前の見学。
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羽島知之先生は70代半ばでですが、今でもジムにかよって体を鍛えているそうです。
また、羽島知之先生は東洋大学大43代校友会会長でもあります。長岡校友会で長岡花火を見、翌日新潟に二泊しました。なんと、一泊を蔵織に泊っていただきました。
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新潟市のSさんと昔の新聞の話。
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昭和20年の長岡空襲が載っている新潟日報。
新聞統制:1942年(昭和17年)新潟日日新聞、新潟県中央新聞、上越新聞の3紙が合併し、「新潟日報」が誕生。題字下に毎日、読売、朝日新聞とある。
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書籍多数
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# by moekire | 2012-10-06 13:26 | 新潟市のこと